日本人の匿名性と自殺率3

この記事は、当ブログ内の以下の記事からの続きです。お時間のある方は、ぜひ以下の記事もお読みください。

続きとはいえ、前の記事を書いてから長い永い時間が経過していて、とても続きとは思えない状況ではありますが、折りしもいじめによる小中学生の連鎖的な自殺が大きな社会問題ともなっており、続きを書くにはもってこいでもありますので、思うところを書いてみたいと思います。

私がこの題材を取り上げるにいたったのは、あるひとつの興味深い文章に出会ったたからです。それは「匿名は日本の「国民性」だったんだ 」を書いた少しあとではなかったかと思います。

その文章を読んだとき、この問題の核心はこれだなぁ、という確信めいたものが芽生えたのですが、あまりにも大きく深い問題であるため、もっと別な側面があるのではないかという迷いもあり、ずっと考え続けていました。そうこうするうちにいじめの問題が大きな社会問題として取り上げられ始め、ブログ界隈でもたくさんの人たちがこれについて論じるのを読むことができました。

そして、最初に芽生えた確信が、より確かなものに思えてきました。

まずこの文章を読んでみてください。
世界各国における自殺に対する考え方について、興味深い考察がなされています。日本という国の土壌が、いかに自殺に対して寛容であるかが良くわかります。これと直接関係があるわけではありませんが、最近梅田さんが「よく生きる」ということに対する世界各国の考え方の違いについて池澤夏樹さんの興味深い文章を取り上げていらっしゃいましたので、こちらもご紹介します。
「いかに死ぬか」と「いかに生きるか」が根本的には同義であることを考えると、「日本人の自殺」で考察されていることが、よりわかりやすく簡潔に書かれた文章としても読むことができます。

ちょっと脱線しましたが、僕が日本人の自殺」で、この問題の核心だと確信したのは「3」の最後の部分です。重要なので引用してみます。
少なくても、日本では、自殺は、自殺という行為は、モラル上からも決して褒められた行為ではない。忌み嫌われるタブーであった。昔から日本では自殺者を出した家は、疎まれる傾向があった。特に地域住民の密着度の強い地方では、この傾向は強かった。もちろんある種の差別にも通じる可能性のある共同体的精神構造を必ずしも全面的に肯定するものではないが、「疎まれる」という暗黙の規範が、日本という地縁血縁の強い社会においては、自殺を思い止まらせる強制力として働いていたことも事実であった。またかつては、どの地域にも、一度怒れば怖いが、親身になって人の話を聞いてくれる頑固なオヤジさんや世話好きなオバさんの一人や二人はいたものだ。
ところが、今や日本中、核家族の傾向が強まって、地方の若者は刺激の強い大都市周辺に集中し、地方は過疎が進んで、高齢者ばかりが目立つ社会となってしまった。都会でも核家族化の傾向は同じで、結婚をすると、父母を捨てて、別の所帯に移ってしまう。結婚をしなくても、親元を離れ、狭いアパートでの一人暮らしを志向する若者が多い。日本が自殺大国となってしまった原因には、やはりこの核家族の傾向が強まってしまって、それまで働いていた自殺抑制の社会的機能が壊れてしまったことにあるのではないだろうか。
僕は、日本の社会において「いじめ」がなくなることはないだろうと思っています。大人の社会でもたくさんの「いじめ」が行われているのに、学校に通う子供たちのあいだで「いじめ」がなくなるなんてありえないことだと思います。

つい最近子供の通う小学校で、教育に対する考え方の違いからある先生が他の先生たちから疎外感を感じる扱いを受け、精神的な問題で学校を長い間休まなければならなくなるということがありました。どちらの先生も、とても教育熱心な良い先生で、僕としてはどちらも責める気はありません。話を良く聞くと、どうも先生たちのあいだでこういったことが起こることは結構あって、今学校を休んでいる先生にとって乗り越えなければならない試練のなのだ、ということで、たぶんそういうことなのだろうと思います。

その先生には、昨年度までその学校で教頭を勤めていた頼りになる相談相手がいるので、この問題はこれ以上大きくなることはないでしょう。

つまりそういうことです。

いじめはなくならない。いじめ以外の社会的なストレスもなくなることはない。そして、そういったストレスによって自殺に思い至る人が出てくることも抑えられない。でもその人が実際に自殺してしまうことは止められるのではないかと思います。

先日、文科相に届いた自殺予告の手紙が公開されましたが、その手紙の真偽はともかく、あの手紙の内容を読んで思うことは、逃げ場がどこにもない、ということ。絶対に守ってくれるはずの親や先生にも頼ることができない状況がどんなに絶望的なものなのか、僕にはうまく想像することさえできません。

以前どこかで読んで、いつか自分の子供が自分の元から離れていくときにかけてやりたいと思っている言葉があります。

「たとえお前が殺人を犯したとしても、俺はお前の味方でいてやる。」

いくら間違っていても正しいことがある。それを信じられる人間関係が増えていくといいなぁと思います。


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4 コメント:

  1. Hit 2006年11月23日 18:24

    逃げ場がないから自殺しなきゃいけないんですよね。

    宗教が生活に根ざした国では、逃げ場がなくなったときに神様が助けてくれる。でも今の日本では宗教が生活に根ざしていないから、困っても仏様は助けてくれないのです。昔はもっとご先祖様を供養していたから、困ったときには夢枕に立ってくれていたりしたのですが、今ではそれも少なくなってきましたからね。

    ムラ社会というのも冠婚葬祭、つまり宗教的なつながりが最優先ですからね。村八分という言葉の通り、どんなに仲間はずれでも、神様だけは仲間はずれにしないわけです。

    宗教ってのは心のよりどころですから、それに頼り切ってしまうのは問題ですが、いざというときのために一つとっておくと一回り強くなれます。

    もちろん、宗教でなくてもどこかに逃げ場があればいいわけです。とはいえ、神様というのはどこの国でも最強ですから、なかなかこれを超える逃げ場というのは難しいですね。

    普段から小さな逃げ場をたくさん用意しておけば、大きな逃げ場まで逃げ出す必要は少なくなります。頼れる相手がどれだけいるかですね。

     
  2. H & A 2006年11月23日 23:03

    日本人にとって仏教ってなんでしょうねぇ?
    少なくとも、いわゆる「宗教」とは違うもののような気がします。
    仏教のことを対して知りもしないでこんなこというのも不謹慎なんでしょうが。
    しかし、こういう感覚の日本人がとても多いのは事実だと思います。

     
  3. Hit 2006年11月24日 18:54

    江戸時代に檀家制度で仏教徒になった多くの日本人は宗教を意識していないでしょうね。

    「困ったときの神頼み」という言葉がある通り、困難な時代には宗教がもてはやされるわけです。長く平和な江戸時代の間に、日本の仏教は形骸化してしまって、未だに立ち直れないというところでしょうか。

    仏教徒でありながら天照大神の庇護のもとで過ごしてきた日出国の民人は、そうはいっても幸せなんでしょうね。

     
  4. H & A 2006年11月24日 22:03

    そう。
    木にも、風にも、石ころにも神が宿ると考えた、八百万(やおよろず)の神を信仰する古来の神道こそ、なんだか日本人にピッタリな信仰ではないかと思えてなりません。
    ちょっとオカルト的ではありますけどね。