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11月, 2007の投稿を表示しています

モーツァルト

もう昨年の話ですが、2006年はモーツァルト生誕250周年ということでモーツァルト・イヤーだったそうです。昨年の話ですが。

ということで、美人バイオリニストの誰だったかがラジオに出てきてモーツァルトの話をしていました。
その話によれば、モーツァルトの曲を演奏するのは大変なんだそうです。とにかくたくさん練習しないといけないのだそうです。でも曲自体は難しくはなくてすぐに演奏できるらしいです。
だんだんわからなくなってきましたね。

モーツァルトの曲というのは、天真爛漫で天才肌の彼自身と似て、シンプルだけど美しい旋律が特徴で、シンプルなだけに演奏するのはそれほど難しくはないらしくて、誰でもたやすく演奏できるのだそうです。

でもその曲の本当の良さを引き出すためには、難しい技巧の必要な曲でも弾きこなすことのできるテクニックを持った演奏者がとにかくその曲を弾きまくって、最初から最後まで頭を空っぽにしてなんにも考えなくても弾けるようになるくらいからだで覚え込まなければならないのだそうです。

なんとなくわかってきましたね。

モーツァルト自身も、ノリ始めてくると食事も睡眠も忘れて何十時間もぶっ続けでピアノに向かって作曲に没頭することがあったそうです。天才というのはどうもそういうものみたいです。凡人よりもはるかに優れたテクニックと才能を持っていながら、作業に費やす時間が凡人よりも圧倒的に長い。そしてその作業を苦にすることはまったくなく、とても楽しんでいるように見える。

そんなふうにしてできあがった曲だから、その曲の本質をとらえて演奏するのにも同じことが求められるのかもしれません。

いい家を建てるために

僕が仕事をしている中で経験的に感じたことを少し書いてみます。まず第一に、これはあたりまえのことですが、家のことについて、よく勉強すること将来何十年にもわたって稼ぐお金をつぎ込むのですから、しっかりと勉強した方がいいに決まってます。間取りはもちろんのこと、構造や設備のことなど、家を建てるのに必要な知識はたくさんあります。最初は「なにがわからないのかわからない」状態でしょうが、わかるところからだんだん広げていくのをオススメします。自分が勉強していることを、設計者にそれとなくほのめかすお互いに気持ちよくことを進めたいので、あくまでも感じよく、脅迫的にならないように。それでもちゃんと伝わります。ライフプランについて考える家を計画する上で、一番重要なのはこれなんじゃないかと思っています。いま要るもの。いま要らないもの。将来いるもの。将来はいらないもの。家族構成の変化や住み替えも視野に入れましょう。これだけ考えると、自分たちの家に必要なものが浮き彫りになってきます。そしたらその要望を設計者にできるだけシンプルに伝えるで、要望を伝えたあとはできるだけ口出ししないお互いの信頼関係を良好に保つためには、これが一番いい方法のようです。

佐野元春の、手法についての考え方

中学生のころに雑誌で読んだ佐野元春へのインタビュー記事にこんなのがありました。時期はたしか「No Damage」のころ。自らの音楽についてこんなことを言ってました。

「いま街にあふれているポップミュージックをつくる上でのあらゆる手法は、ほぼすべて60年代までに出揃ってしまっている。いま僕らは、それらの中からなにを選んで、なにを切り捨てるのか。そんなことをしているに過ぎない。」

例によってうろ覚えで、だいたいこんなことを言ってたなーて感じです。ちょっとクール気味にアレンジしてる可能性あり。

そんないいかげんなこと言いながら、その言葉にガツンとやられたのは事実で、なんてカッコいいんだこのひとは、ということでその後どんどん佐野元春にはまり込んでいきました。
僕がそのころ好きだったミュージシャンの中にはそんなこという人はいなかったし、そのあともいなかったかもしれない。手法に関しては、その後、ラップというまったく新しい手法が登場し、佐野元春自身もいち早くそれを取り入れ、その後ポエトリー・リーディングへと進んでいきます。

つまり、手法は出揃ってなんかいなくて、まったく新しいものが生まれる可能性はいつだってあったわけなんだけど、それでも、あのときのあの佐野元春の言葉は、僕が何かを創るとき、いつも頭の中にあって、熱くなりすぎてしまいそうなとき、うまくクールダウンしてくれます。

アルバム

iTunes の登場以来、持ってるCDを全部 iTunes に取り込んで全曲シャッフルで聴くのがあたりまえになってきてます、僕的には。

意外な曲の並び方が新鮮だったり、あんまり聴かなくなっていた昔の曲を思いがけず再発掘できたり、いろんないいところがあります。

なのですが、最近CDチェンジャーのついた車に乗り換えて、車の中ではCDを聴くことが多くなってきて、CDが10枚入っていてもよく聴くCDはだんだん決まってきて、CDを入れ替えたりもしないのでなおさらそうで、そのうちにある曲が終わると次の曲が流れ始める前にその曲のイントロが頭のなかで流れ始める、ということが起こりはじめます。
あ、なんだこの懐かしい感じ。

音楽にはまり始めた中学生のころ、大好きなミュージシャンのアルバムをカセットテープにダビングして何回も何回も聴いた。ミュージシャンがアルバムを創るとき、できあがった曲をどう並べるのか、曲順にすごくこだわるという話をきいた。アルバムを聴くとき、並んだ曲を交響曲のようにひとつながりに聴いた。A面とB面の入れ替えの動作も含めてアルバムだった。A面・B面それぞれの最初と最後の曲は重要な意味合いを持っていた。

そういうことが、本当にもう昔の懐かしいことになってしまっていることに気づいた。

とかいって、最近いってることがおっさん臭くなってきたなぁ。

米を炊く

もう1年以上も前に電気炊飯器が壊れまして、それ以来我が家のごはんはずっと鍋で炊いてます。炊いてるのは家内ですが。

ステンレス製で、底がちょっと厚めで、ちゃんとした蓋がついていて、ちょっとだけいい鍋みたいなんですが、これで炊いたごはんがおいしいんです。

普通に炊飯器で炊くのと同じように米を研いで、しばらくのあいだ水につけておいて、炊く前に米だけをざるにあけて水を換えて炊き始めます。

沸騰するまで強火で、沸騰したらとろ火にして12分。火を止めたらしばらく蒸らします。するとツヤツヤのおいしいごはんが炊き上がります。

当然ながら保温はできませんが、我が家の場合、食べ残したときやわざと多めに炊いたときは、そのまま蓋をした鍋の中にいれたままにしておいて、食べるときに一膳ずつよそって電子レンジで温めて食べています。炊き上がってから時間がたっていても、この方法のほうが味が落ちないみたいです。

ということで、いつまでたっても新しい炊飯器を買うことができないでいます。

絵のパワー

昨日に引き続きタンブラーを続けていて気づいたことについて書いてみます。

この半年くらいのあいだ、これまでに経験したことのないくらいたくさんの写真を見て、たくさんの写真をポストして、たくさんの写真をリブログしてきました。

それで気づいたのは、写真よりも絵の方がパワーが強いなーということです。写真なんかよりもずっと自由度が高くて可能性の大きさを感じます。当然のことなんですけど、いまさらながらに痛切に感じさせられました。

写真が、カメラやレンズの力を借りていたり、偶然性から逃げられないのに対して、絵は、基本的にアーティストの力だけによってできていて、絵の出来上がりを偶然性に委ねるのか、すべて必然とするのかもアーティストの判断によります。
どれもこれもあたりまえのことばかりですが、そんなあたりまえのことにあらためて気づかせてくれたことに感謝しています。

ということで、最近気に入ってよくポストしている絵描きさんのサイトをご紹介します。
Mattias Inksちょっと鳥山明に似たタッチが気に入っています。ここの絵はすべて MOLESKINE という特別な手帳に描かれたもので、僕もこれを買おうかと思案しているところです。方眼グラフタイプとか。
そして、僕にそんなワクワクするような経験をさせてくれるヒーローたちが彼らです。
A bunch of Tumblrs.

Tumblr にどっぷり浸かってみてわかったこと

このまえのロシアも含めて、タンブラーを続けていていろんなことがわかったりしてるんですが、最近ひとつ大きなことに気づきました。それは、

プログラムって、プログラマーってスゲーーーーー!!!!

ってことです。

タンブラー前だって、それなりに Firefox 使ったり、グリモン入れたり、Stylish で好みの CSS を適用したりはしてました。でも、確かに便利かもねー、程度のものだったかもしれません。なんか冷静な感じ。プログラムやプログラマーの存在はもちろん認識してるんだけど、なんだか遠いところにいる感じ。お友達にはなれそうにない感じ。

それがタンブラー後。
これはタンブラーが革命的コンセプトのもと、とてもシンプルに作られているからだと思いますが、次々とタンブラー向けの UserScript や UserStyleSheet がリリースされました。これらを取捨選択しながら、僕のタンブラー・ライフはどんどん劇的に快適になっていきました。

ロシアの記事にも書きましたが、タンブラーはもう僕の生活の中にすっかり溶け込んでしまっています。日課のようなものです。これはすべて優秀な UserScript や UserStyleSheet のおかげです。そんな感謝の気持ちとともに、プログラムやプログラマーの存在が近づいてきた感じです。

このまえ Tumblr v3 がリリースされて、それまで愛用していた Share on Tumblr (JSAction スクリプト) が機能しなくなり、Tombloo 0.0.3 がリリースされるまでの間の生活のリズムの狂い方は異常でした。あらためて自分がタンブラー中毒で Dashboard 中毒で Share on Tumblr (JSAction スクリプト) 中毒で LDRize 中毒であることに気づきました。ここまで人の生活を変えてしまうプログラムってなんなんだ、とか思いました。ちょっとヤヴァいかも。

ヤヴァいかヤヴァくないかは別にして、プログラムが多くの人の生活を劇的に変えてしまうほどのパワーを持っていることは確かです。

一方で自分がまったくプログラムをかけないことに落ち込みます。これはもう義務教育の中で、英語の次の第3言語としてプログラム言語を教えるべきかもしれんなーとか思います。もしみんなが簡単な UserScript や UserSty…

能動/受動

この文章を読んで。
to似たような話でこういうのがあります。

脇腹を人に触られるとくすぐったくて耐えられないのに、同じところを自分で触ってもなんともないのは、いつ、どこを、どんな風に触られるのか、あらかじめ分かっているか分からないかの違いなのだそうです。

人のからだに加わる作用は同じでも、それが能動的であるが受動的であるかによって結果がまったく異なってしまうことがよく分かります。

一般的によく「能動>受動」的なことが言われます。なんでも受身じゃダメだ。自分から動け。みたいなこと。それはそれで正しい部分もあるんだろうけど、逆に受動的であることによって効果があがることもあるんじゃないか、という気がしています。

僕みたいな建築設計の世界ではあんまり関係ないかもしれませんが、to さんみたいにプログラムを書く人は「能動/受動」を意識するといいのかもしれません。

てゆーか、to さんは気づいてるんだろうけど。

非 Lifehacks 的なもの

スタンフォードのウェブサイトに書かれた「The Big Difference between Winner and Loser(勝者と敗者の違い)」という有名な TEXT があります。
Geekなぺーじ : 勝者と敗者の違い勝者は間違ったときには「私が間違っていた」と言う。
敗者は「私のせいではない」と言う。
勝者は勝因は「運が良かった」と言う。例え運ではなかったとしても。
敗者は敗因を「運が悪かった」と言う。でも、運が原因ではない。
勝者は敗者よりも勤勉に働く。しかも時間は敗者より多い。
敗者はいつでも忙しい。文句を言うのに忙しい。
勝者は問題を真っ直ぐ通り抜ける。
敗者は問題の周りをグルグル回る。
勝者は償いによって謝意を示す。
敗者は謝罪をするが同じ間違いを繰り返す。
勝者は戦うべきところと妥協すべきところを心得ている。
敗者は妥協すべきでないところで妥協し、戦う価値がない所で戦う。
勝者は「自分はまだまだです」と言う。
敗者は自分より劣るものを見下す。
勝者は自分より勝るものに敬意を払い学び取ろうとする。
敗者は自分より勝るものを不快に思い、アラ捜しをする。
勝者は職務に誇りを持っている。
敗者は「雇われているだけです」と言う。
勝者は「もっと良い方法があるはずだ」と言う。
敗者は「何故変える必要があるんだ?今までうまくいっていたじゃないか」と言う。 まったくもってその通りだと思うし、できれば自分は勝者でありたいと思うし、でもしかし自分がここでいう敗者のように振舞っているのに気づいて自身を戒める、なんてこともあったりして、たぶん多くの皆さんがそんなふうなんじゃないかと思うのです。が。

んが。

今朝、気づいたことがあります。
敗者の振る舞いとして挙げられている「問題の周りをグルグル回る」という行動。
いっしょに手をつないで、この「問題の周りをグルグル回ること」を求められることがあります。というか「あ、いままでずっとこれを求められていたんだ!」と、今朝気づきました。

どうも世の中の女性の多くが、これを求めているような気がします。「過程を大事にしたい」という言葉で言い換えられることもあるようです。

うまく行くはずのものがうまく行かないとき。このあたりに落とし穴があることもあるようです。

世界の終わり

不思議な感じのする写真をみた。
http://handa.tumblr.com/post/17969598


***


澄みきった青い空にそびえ立つきのこ雲

静かに凪いだ海

海だけでなく、その場の空気全体に漂う静寂

一瞬、真空の中に放り込まれたかのような静寂

「世界の終わり」というものがあるとしたら
それはもしかするとこんなふうに
静かに、まるで他人事のように訪れるんじゃないか。

そんな気がした。