都市の匿名性とインターネット

僕らはまず、生まれてすぐは家族の中だけで過ごす。そこは、自分と血のつながった、ごく近しい人たちだけの世界だ。そのころは、自分のまわりにいるすべての人が自分のことを知っている状態だ。

しばらくすると、親戚や、家族の友達と顔を合わすことになる。人見知りをして泣いたりすることにもなる。しかし公園などで遊ぶうちに、だんだんと他者との関り方に慣れていき、幼稚園にあがるころには自分から知らない友達に話しかけることもできるようになっていたりする。

小学校・中学校・高校・大学と進学していくにつれて、自分のまわりの他者の数がどんどんと増えていく。大きな高校や大学では、入学してから卒業するまで、同じ学内にいながらも一度も顔を合わすことのない人もいるだろう。

そして社会に出たとき、他者との関わりは爆発的に増えることになる。まったく知らない人のところへいきなり行って、飛び込み営業しなきゃいけないこともあれば、まったく知らなかった人が突然お客さんになったり、仕事のパートナーになったりもする。

そんな他者との関わりの中で日常を過ごしながら、ふと都市の雑踏の中に立ったとき、まわりにあふれるほど人がいるのにも関らず、自分のことを知っている人がひとりもいないことに気づく。満員電車の中で、息が吹きかかるくらいそばに立っている人のことを、上手に無視することができるようになっていることに気づく。地下通路にいるホームレスの人たちの横を、まるでその人たちは存在しないみたいにして通り過ぎることだってできる。そして、自分だってその対象であることに気づく。

そんなふうにして僕らは、巨大な都市の中で不思議な匿名性を獲得することになる。それは喪失感や孤独感と同時に、不思議な居心地のよさを感じさせる。

インターネットで匿名でいることの是非が議論されることがあるけれど、僕はどちらでもいいかなと思っている。ただ、少なくとも、インターネット上に名前や住所や電話番号が公開されたとしても、ひっきりなしに電話がかかってきたり、ポストがダイレクトメールであふれたり、知らない人が突然たずねてきたりすることはないと思うので、なんの心配もないだろうとは思っている。でもそんなことをすると、ちょっと頭のおかしい人だと思われるおそれがあるのでしないけれど。本名だけは、ちゃんと探せば見つけることができる程度に公開している。

ただ、都市における不思議な匿名性の存在を知っているので、みんながインターネットの世界で匿名でいたがる「気分」は理解することができるような気がする。あの不思議な居心地のよさを知っているから。そしてそこには同時に、喪失感や孤独感があることも知っているから。

Posted at : 18:21 on 2009/04/24 | 0 comments | Filed under:

「Share」するということ

タンブラーの設計の根底にある考え方のひとつに「Share」があると思います。

それは純正のポスト用ブックマークレットの名前が「Share on Tumblr」であることから分かります。もう少し言葉を加えれば「Share your love & hate on Tumblr」ということになるでしょう。

この「Share」という言葉は「分かち合う」とか「共有する」などと和訳されることがありますが、実際のところ欧米では、和訳されたその言葉の響き方よりも、もっとカジュアルで気軽な印象が強いような気がします。

アメリカでは、親元を離れて大学生活を送る学生たちが、学生同士で部屋を「Share」することが多いです。複数のベッドルームを持つ部屋を複数人で借りて、そのベッドルームをそれぞれの個室として使い、バス・トイレ・キッチンは共有して家賃を折半するわけです。

もともと気の合う友達同士で「Share」することもあるでしょうが、YMCA などへ行くと、「Share mate」つまり、部屋を「Share」する相手を探す張り紙を見つけることがよくあります。先にひとりで広い部屋を借りてしまったのか、それとも、元々いた「Share mate」がなにかの都合で出て行ってしまったのかもしれません。いずれにしても、見知らぬ相手同士が部屋を「Share」することも少なくないことがよくわかります。

不動産事情も違うので単純には言えないかもしれませんが、日本ではこのように部屋を「Share」している学生は少ないように思います。きっと「Share」することで発生するわずらわしさを嫌う学生が多いのではないでしょうか。そういう傾向が強いことを見越して学生用のワンルームマンションが多いのかもしれません。

欧米の都市においては、窓の外の街路に向けて花を飾っている家が多く見られます。また集合住宅では、洗濯物を街路から見えるところに干すことが規制されていることもよくあります。

街路は都市に住む住民たちの共有物であり、広場は住民たちそれぞれの第2のリビングルームであり、オープンカフェは第2のダイニングルームであり、そこから見える景観を美しく保つのは、住民たちそれぞれの義務である、という考え方が、ごく自然に根付いているようです。

伝統的な日本の都市では、街路と住宅の敷地とのあいだには背丈よりも高い塀を設けて中が見えないようにして、その中を美しくしつらえていました。もちろん塀の外側も汚いことはないのですが、そこには「拒絶」が見え隠れして「Share」という考え方からは程遠いことが感じられます。

マンションのバルコニーには洗濯物がカラフルにはためき、欧米人はその景観をみて「カオス」だとか「エネルギッシュ」などと評します。もちろんそこには良さも悪さもあり、どちらが良くてどちらが悪いということではありません。文化の違いだと考えるのがいいと思います。

タンブラーでは、「Share」の手法として「Reblog」の他に「like」というものがあり、欧米の人たちは「like」する傾向が強いように思います。もちろんさまざまな要因があるのでしょうが、おそらく「Share」する文化の人たちの「気分」としては、「like」のほうがより自然なんだろうなぁと思っています。

Posted at : 9:44 on 2009/04/23 | 0 comments | Filed under: