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投稿

9月, 2010の投稿を表示しています

「やりたいことをやる」ということ

マイミクの藩金蓮さんが 、ことし創設されたばかりの文学賞 「団鬼六賞」を受賞されました。ミクシィ日記でそのことを報告していらっしゃいます。 藩金蓮さんのミクシィ日記(受賞報告) 読めない方は、きっと近いうちにブログにも受賞についての文章を書かれると思いますのでブログもご紹介。歌餓鬼抄 この方の書く文章は基本「エロ」なのですが、人間の奥底にある「なにか」を暴きだそうとするかのように、身を削るようにして書かれたものばかりで、ちっともエロくなくて、むしろ考えさせられることが多いです。 「やりたいことをやる」ために、それまでしていた仕事を辞め、ミクシィとブログにしか書いていなかった文章を、だんだんと出版物に発表することが増えてきて、それと同時に人脈がどんどん増えていき、それも彼女がリスペクトする人たちとの関わりが増えていき、それがこの文学賞受賞の前後に爆発したように増えました。 そんなこんなを、彼女のミクシィ日記やツイッターなどで目の当たりにし、才能のあるひとが「やりたいことをやる」ことのスゴさを感じさせられました。 俺もなんかやってみようかな、なんつって。

ハンターとしての資質

夜、迷い込んだ森の中で、道の先にヘッドライトで照らし出された、立ちのぼる炎のように立派な角を持った雄鹿が、こちらを悠然と眺めるシルエットを見たことがある。距離にすればきっと50メートルほどはあっただろうか。しかし、その時僕は、完全に彼と目があってしまった気がして、というよりも、見据えられた気がして、身がすくむ思いがした。とにかく、その彼の姿は、とてつもなく神々しかった。ハンターの知り合いを持つ知り合い(遠い!)から聞いた話だが、猟に出かけるのは体力的にも精神的にも万全の時でないとダメだそうだ。彼はひとりで森に入り、「これは」と思える獲物を長い時間かけて探し、見つけると確実に仕留められる位置・距離に入るまで追い続け、仕留めたら手早く血抜きをして解体し、それをたったひとりで森の外へ運びださなければならない。体力的にきついのはもちろんだが、森に入ってから出てくるまで、自分が獲物よりも上の存在であるという気持ちを保ち続ける精神力が重要なのだそうだ。その話を聞いて、あの森で見た雄鹿の神々しい姿を思い出し、深く大きくうなずいた。

かっこ良すぎてかっこ悪くなっちゃうことがあるよね

ダサい空間でも、真っ白に塗りつぶしてかっこいいアイテムを置いていくと、それなりにかっこいい印象になる。
ちゃんと構成されたカッコいい空間にかっこいいアイテムを置いていくと、かっこよすぎて、息苦しい居心地の悪い空間になる。
ちゃんと構成されたかっこいい空間に、雑多なアイテムをある程度整理して置くくらいがちょうどいい。ってのが今の気分。この前「Townhouse : ELDINGOSCARSON.COM」で書いたのと同じことが言いたいのですが。つまり「ちゃんと構成されたカッコいい空間にかっこいいアイテムを置いていくと、かっこよすぎて、息苦しい居心地の悪い空間になる」ってのが問題で、これは建築に限った話ではなくて、おそらくすべてのデザインに当てはまる話だと思います。
極限までかっこよくしていいのは、きっと美術館とか劇場とか、ひとにある程度の緊張を強いていい場所に限らると思います。店舗や居住空間でコレをやると、集客力が落ちてしまったり、住み手がつかなかったり、すぐ離れてしまったりってことになるのでしょう。そういう意味では、この前の「Townhouse : ELDINGOSCARSON.COM」で紹介した、青木淳さんがギャラリーであれをやったというのは、逆にスゴイことだなぁと思います。

さ行とざ行の日本語的ひびき

最近、車の中で佐野元春さんのスポークン・ワーズのライブアルバムを聴くことがあります。最初とっつきにくかったのですが、10連奏の CD チェンジャーで定期的に再生されるのを聴いているうちに、だんだんと好きになってきました。もしかすると、最近ハマって欠かさず見ている「佐野元春のザ・ソングライターズ」の影響もあるのかもしれません。この番組の中で披露されるスポークン・ワーズは、まったくの朗読で、まったくの無伴奏なのですが、CDになっているものは、ずべて伴奏つきで朗読と密接に絡まり合っています。きっと詩をじっくりと味わうためには前者のほうが向いているので、番組コンセプト的にはこのほうがいいのでしょう。ただ、伴奏つきのスポークン・ワーズであっても、詩をじっくりと聴くべきなのだろうとは思うのですが、運転中にいろんなノイズの中で、じっくりとCDの音に集中しているわけにはいかない状況で聴いていると、朗読が単なる音としてしか聴こえてこないことがあります。
そんな時に気づいたのが、さ行とざ行の音の強いひびき方です。意味のある言葉として聴いていたときにはあんまり気づかなかったのですが、音として聴いたときに、さ行とざ行の音だけが抜き出されたように聴こえてきたのです。佐野さんはこのことに気づいていて、それを強調するように詩を書いているのではないか、ということにも気づきました。例えばこんなふうです。僕は走った。
走って走って走って、
岬の端の橋のたもとまで走った。「はし」という音のひびきの面白さが強調されています。この詩の朗読を、単純に音として聴くと(ちょっと難しいかもしれませんが)「し」の音だけが耳に残って不思議なひびきとリズムを作り出していることに気づくと思います。ずっとまえに、日本語を全くしゃべれないアメリカ人が、日本人の真似をして日本語のようなものを喋るという芸を見たことがあるのですが(ちょうどタモリの4ヶ国語麻雀みたいに)、その人はやたらとさ行とざ行を強調していました。そのときはそんなふうに聞こえてるのかなぁ、くらいにしか思えなかったのですが、今頃になって理解できたような気がします。井上陽水さんがあるテレビ番組でこんなことを話していました。「曽根崎心中」という言葉がひびきが好きで、なぜ好きなのがずっと考えていたら、さ行とざ行の短い繰り返しだった、ということ…