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「なにかしてる」と「なにもしてない」のあいだ

もうずいぶん前のことですが、「アメトーーク」の「人見知り芸人」の回で、企画発案者であるオードリー若林がこんなことを言っていました。「楽屋とかで、なにもしてないと話しかけられちゃったりするので、特に興味もないのに缶コーヒーの裏に書いてある原材料とかを読み込んだりします。いつもなにかしてる人になっていたいんです。」これはつまり、人見知りで人に話しかけられることを極端に嫌うので、「なにかしてる」人になることで話しかけられづらい状況をつくっているわけです。その一方で、いま「ほぼ日」で連載中の、糸井さんとイラストレーターの荒井良二さんの対談の中でこんな話がありました。やっぱり、絵を描くことって、
こうやって白い紙に向かって
筆を持つことだと思ってるから、
早くしてくださいって
催促する人にとっては
なんにもしてないように見える。
でも、自分の中では進んでるんですよ。
絵は真っ白なまんまかもしれないけど、
ぼくの中では始まってるんです。
こう、ご飯食べながらでも、もう、
絵を描くモードに入ってたりするんです。
だけど、外からはそう見えない
っていうだけの話であって。こう、たとえば船がね、
波の上に浮かんで、ずーっと、こう、
ゆらゆらしてるじゃないですか。
あの時間も、ちゃんとカウントしてほしい。
どこにも進んでないからって、
船に乗ってないわけじゃないんだ。ほぼ日刊イトイ新聞 - 荒井良二さんと糸井重里は いろいろ似ていた。ちゃんと「なにかしてる」つもりなのに「なにもしてない」と思われちゃって困ってる人たちの登場です。このふたつの話の中で出てくる「なにかしてる」と「なにもしてない」は、まったく関係ないようで何か関係しているような気がします。そんな気がしたのでこの文章を書き始めてみたのですが、ここまで書いたところでコレといった結論に辿りつきそうにないことがわかってきました。あ、コレ「なにもしてない」わけじゃないんですよ。ちゃんとどこかへ向かって進んでる途中なんですからねっ!

世界について

僕らが見ている世界は、僕らにとって、たったひとつの世界だ。
きっとみんなそんなふうに思ってるだろうと思います。でも実際には、僕らの見ている世界は、僕らの見ている世界にすぎません。
あるいは「僕ら」というのもおかしくて、僕の見ている世界は僕の見ている世界であって、あなたの見ている世界とは違うのかもしれません。たとえば、僕らの住む世界に一緒に住むアリ達が見ている世界は、僕らが見ている世界とはまったく別の世界です。ちょうど「ミクロの決死隊」の世界だと考えるとわかりやすいでしょう。UFOや宇宙人が写っているとされる写真が公開されることがよくありますが、あれはすべて僕らの住む世界の感覚で理解できる範囲をはみ出していません。
宇宙人がとんでもなく大きかったり、とんでもなく小さかったりしても、少しも不思議じゃないのです。
たとえば、とんでもなく小さな宇宙船に乗った、とんでもなく小さな宇宙人が、毎日僕らの体の細胞と細胞のすき間を通り抜けているのかもしれないのです。地球外生命体はいるかいないか、というよくある質問に対して、そんなのいないはずがないというスタンスをとっている僕としては、こんなふうに考えると、とても楽しくなってきます。それに、同じ人間であっても、大人と子供、男と女では、見ている世界が少しづつ違うのでしょう。こう考えると、ちょっとだけ背中の荷物が軽くなった気がしませんか?