ありがとうの反対側

好きの反対は嫌いじゃなくて無関心。好きと嫌いは相手に興味を持ってるという意味では同じだ。というのがあって、ほほーなるほどー、なんて感心したのですが、それと同じように(同じなのか?)、ありがとうの反対は「当たり前」だそうです。これまた、ほほーなるほどー、ですね。

最初はいろいろと感謝の気持ちをもって過ごしているのですが、慣れとか慢心などによって、それがいつのまにか当たり前になってしまいます。それと同時に感謝の気持ちが失われていって、お互いに嫌っているわけではないのに、徐々に人間関係に亀裂が入っていきます。夫婦関係とかでありがちな気がします。いろんなことを当たり前だとは思わずに、感謝する気持ちを忘れないようにしないと、きっといろいろとまずいことが起こるよ、ということで結論づけていいかと思います。

しかし世の中はあまりにも多くの「当たり前」で溢れかえっています。当社調べによりますと、いま世の中にある「当たり前」は、「ありがとう」の実に4倍近い、ということらしいです。夫婦などの人間関係だけではなく、社会には技術革新によってもたらされた「当たり前」がホントにたっくさんあります。移動手段でいえば、徒歩で行っていたところを自転車で行くようになり、そのうちにバスや電車を利用するようになって、免許取ったからとかいって自家用車に乗って行ったりとか、遠いからとかいって飛行機で行くようになります。最初のうちは、便利だねーって感謝していたのに今ではもうぜんぶ当たり前です。連絡手段だと、飛脚に手紙を渡してたのが早馬を使うようになって、そのうち道端のポストに放りこんでおくと届くようになって、一家に一台電話がついて、そうこうするうちにファックスが登場して、なにコレ魔法?みたいになって、今ではなんでもメールになって、ラジオの世界からハガキ職人がいなくなりました。

たしかに便利になった。どんどん便利になった。そして、ものすごかったことがどんどん当たり前になった。しかし、いろいろな便利なことの裏にはたくさんの人が携わっていて、その人達には感謝しなきゃいけない、でもそんなの知ってるしみんな仕事でやってるんだしオレだって仕事してるし便利を手に入れるためにお金払ってるしー、みたいなことです。

いろいろと便利になることは無条件でいいことだと思われているけれど、それはつまり世の中にどんどん「当たり前」が増えることで、それと同時に「ありがとう」が少なくなっていく。これが本当にいいことなのかどうか、考えれば考えるほどわからなくなっていくよ。

Posted at 時刻: 11月 26, 2011 on 2011/11/26 | 0 コメント | Filed under: ,

問題は自然には発生しない

世の中には様々な問題が発生しています。このように書くと、問題は自然にできあがるもののように思いますが、実は問題が自然に発生することはない、ということに気づきました。自然に発生するのは事象や現象だけで、問題は必ず誰かによってつくられるものです。それはちょうど学校の先生が児童・生徒のために問題を作るのと同じように。

このようにして世の中に散在している問題とは、つまり社会問題と呼ばれるものです。この社会問題のやっかいなところのひとつは、学校の先生が児童・生徒のために作った問題とは違って、絶対の正解が存在しないところで、そのためにすっきりとすべてが解決されることないということです。だとしたら問題をつくりだし、それについて議論することは不毛なもののように思えてきます。にもかかわらず世の中は問題で溢れかえっています。これはどうしてなのでしょう?

これを理解するには、社会問題を作り上げている人たちのことを考えてみると良いと思います。問題の張本人のことではなくて、その人のことを、あるいはその現象・事象を取り上げて問題提起する人たちのことです。
問題提起する人たちは、実はその問題がすっきりと解決されることがないことをあらかじめ知っているように思います。にもかかわらず問題提起するのは、その目的が問題を解決することではなく、その問題について議論することだからではないかと思います。もちろんその議論は問題解決のために行われるわけですが、その問題提起の目的は問題解決ではなく、それについて議論することそのものなのではないか? ということです。なんだかややこしいですね。

どうしてそんなややこしいこしいことになるのかというと、それはきっと、問題について議論すること、あるいは問題提起をすること生業(なりわい)としている人たちがいるからなのではないかと思います。あるいは、その問題について議論を深めることにやりがいや生きがいを感じ、ライフワークとして取り組んでいる人たちもいるかもしれません。

このような視点で世の中にある様々な問題を眺めてみると、ちょっと別な見方ができるようになって面白いような気がします。(という問題提起でした。)

Posted at 時刻: 11月 05, 2011 on 2011/11/05 | 0 コメント | Filed under:

「仕事」と「生業(なりわい)」

生業(なりわい)とはそもそも本来、お金を稼ぐための仕事のことを指していて、仕事とは、それ以外のお金にならない仕事のことなのだそうです。現在では両方を仕事と呼んでいるので説明がややこしくなりますが、そういうことらしいです。
農家の方々が農作物を販売する行為は生業で、土を耕したりする行為は仕事ということになるそうです。でもこれだとちょっとわかりにくいかもしれません。商売など、生計を立てるための行為を生業と呼び、地域のお祭のお手伝いをしたり、そういったことの取りまとめを請われて引き受けたりといったことを仕事と呼ぶ、といったほうが分かりやすいかもしれません。仕事には、政治的な役割も含まれてくるような気もします。

明治初期くらいまでの日本では、男は仕事と生業の両方をきちんとやって、やっと一人前と認められるような風潮があったそうで、明治以降の人たちが生業一辺倒になってきているのを見て、それ以前の男達がなかなか一人前だと認めなかった、ということもあったようです。

それが今では、生業ということばは形骸化してしまって、生業と仕事を分けて考えることは無くなってしまいました。いまの大部分の男達にあるのは生業と趣味くらいかもしれません。かつては仕事として行われていた政治的な役割も、今ではそれを生業としている政治家も多くなってきているように見えます。

これらの考え方は、つい最近どこかで読んで知ったことなのですが、これが引っかかったのは、僕が独立して自分で仕事を始めていたからかもしれないなぁと思いました。勤めていたころは、その勤め先の中での福利厚生行事の手伝いなどの「仕事」的な行為もありましたが、務めている以上それらはすべて生業ということになると思います。
それが、独立して以来、仕事と生業は完全に分かれてみえてくるようになりました。独立と同じタイミングで小学校のPTAの仕事も引き受けることになって、そのPTA活動がけっこう活発だったこともあり、生業以外の活動のボリュームが増えたことも原因としてあるかもしれません。

そして最近、この仕事と生業の両立が、精神衛生上とても良いということに気づきました。生業は、いくら没頭してやっていても、どこかに閉塞感や無力感のようなものがつきまといます。家族を養うためのお金を稼ぐためだと割りきってやることも少なくないと思います。生業の中にやりがいを見つけることもあるかもしれませんが、それは生業の中にある「仕事」的な部分に見つかるような気がします。
一方、仕事には閉塞感や無力感は基本的にありません。やりがいや充実感で満たされていて、それを続けていくことで人間関係やいろんな世界が広がっていきます。少なくとも今はそんな気がしています。

僕がいま、独立してよかったなぁと思っている理由の一つがこれです。

Posted at 時刻: 11月 04, 2011 on 2011/11/04 | 0 コメント | Filed under:

外部記憶に頼るということ

ひとりの人間の記憶の総量は一定だと聞いたことがあります。
だとすると、ある一定量までは記憶は増え続けますが、限界量に達した時点からは、ある記憶が増えたら、それと同じ量の別の記憶が忘れられていくことになります。なんだかちょっと恐ろしいですが、なんとなく信じられなくもないような気がします。
また、この記憶の限界量は個人差がほとんどない、ということも聞いたことがあります。
つまり世間的に物知りとされている人と、そうでもない人と、知っていることの量はそれほど差がないというわけです。物知りの人は他人から物知りと評価されるような分野のことを多く知っていて、そうでもない人はそうじゃない分野のことをたくさん知っているんだ、ということでした。

学生時代にテスト勉強をするときには、とにかく頭に記憶を詰め込みました。しかしある数学の先生からこう言われました。テストの時はそれでいいけれど、頭に詰め込める量には限界があるから、どの本やどのノートのどのあたりにこの重要なことが書かれている、ということを覚えておくとか、無味乾燥な公式を無理やり記憶するのではなくて、その公式を導き出すための考え方を記憶しておくとか、実際に記憶を役立たせるためには工夫が必要だ。ということでした。

この先生の言っていたことのひとつは、本やノートのような外部記憶装置を作れ、ということでした。しかしその頃と状況は変わり、様々な文章がデジタル化されてウェブに公開されている現代において、ウェブ上に、あるいは自分のパソコン上や携帯電話の中に、自分専用の外部記憶装置をつくることが手軽にできるようになりました。デジタル化によって記憶を残すための手間は激減し、残せる記憶の量は無限と言えるほどに激増しました。

たいへん便利になったものですが、いいことばかりではありません。すべての文章を手書きしていたのがワープロ化されたことによって、僕らはいまではひとたび手書きで文章を書こうとしたとき、ちゃんと覚えていたはずの漢字をすっかり忘れてしまっていることに気づきます。漢字の記憶をパソコンなどの外部記憶に頼った結果といえます。何人かの知人友人、何件かの得意先の電話番号は覚えていたものですが、携帯電話を手に入れ、その電話帳に書き込んだとたん、僕らの頭の中からそれらの電話番号はきれいに消え去りました。

僕は日々ウェブで見たものや読んだものを、タンブラーやはてなブックマークや Evernote に貯めこんでいって、必要なときには検索してすぐに引き出せるようにしています。これまでに貯めこんできた量はもうすでにちょっと見当もつかないものになっています。毎日たくさんの情報のシャワーを浴び、自分というフィルターを通して残ったものを蓄積していっているつもりです。ただ、検索して振り返ることがほとんどない事実は、見て見ぬふりしている感じです。
しかし、もうこのやり方を変えることはできないような気もしています。

僕らはこうして、たくさん入ってくる記憶と引き換えに、漢字をなくし、電話番号をなくし、あとはいったい何をなくすのか。もうすでにとてつもなく大切なものをなくしてしまっているような気がして、怖くなってきたりしませんか?

Posted at 時刻: 9月 30, 2011 on 2011/09/30 | 0 コメント | Filed under: , ,

設計事務所を開業して、もうすぐ半年がたつ

開業前のもくろみとしては、3月までいた職場からの仕事がそれなりにもらえるだろうというものでした。逆に言えば、開業前にそれ以外に仕事をもらえるあてはありませんでした。しかし蓋を開けてみたら、ほとんど仕事はきませんでした。でもそれが逆に良かったのかもしれません。否が応にも仕事を探して動くことになりました。

4月は仕事をもらえそうなところに片っぱしから電話をかけたり訪ねて行ったりしました。そして運良く、そのうちの何人かの方から仕事をいただくことができました。
それらの仕事を僕なりにきっちりとこなして納めていくことで、次々と仕事がつながっていって今に至っています。最初の頃は図面の外注などの単価の安い仕事ばかりだったのですが、最近では構造計算や確認申請などのように、1件でまとまったお金をいただける仕事も増えてきています。これをしっかりと続けていけば、そのうちに新築の仕事につながっていくんだろうかと淡い期待をいだいています。

勤めていたころにはほとんど感じることのなかった「きっちり仕事をすることが次の仕事につながっていく」ということを、ほぼ確信に近い感覚でいだいています。実はけっこう初めてのことも多くて、試行錯誤したり失敗することも多いですが、そこは熱意と誠実さでカバーして、なんとか仕事を納めてきました。それは続けて仕事をいただいていることが証明していると思います。

もうひとつ痛切に感じていることが、個人事業主はただ生活をしていくだけでやたらとお金がかかる、ということです。会社員だった頃と比べると、年金や社会保険料がめっちゃ高いです。きっと税金もいっぱい持っていかれるんだろうなぁ。もちろんボーナスもありませんので、毎月これまでの手取りの倍は稼がないと同じ生活レベルは保てない感じです。開業して半年が経って、ようやくその目処が立ちつつあるという状況です。

逆に考えると、これまでは自分で感じていた以上に会社によって守られていたということです。金銭的に言えば主に毎月の安定した収入と社会保険料の肩代わりです。会社によって養われていたんだなぁと改めて実感しています。このさき順調にいけば、法人化して従業員を雇うということになるかもしれないのですが、そのときはその人を家族のように養っていく覚悟が必要だということになります。

こういう感覚って、だんだんと薄れていってしまうもののような気がしますが、この先ことあるごとに此処に立ち返って、気持ちを新たにして先へ進んでいくようにしたいと思います。

Posted at 時刻: 9月 08, 2011 on 2011/09/08 | 0 コメント | Filed under: ,

最期の言葉

「最期」とは、「最後」と読み方は同じでも違うことばです。「最後」にはいろいろありますが、「最期」は人生の「最後」の瞬間のこと。
偉人たちの「最期の言葉」を集めたサイトがありました。なかなか興味深かったので、思いついたことを書いてみます。

ほとんどが自分の死期をさとり、最期を看とってくれる人にたいして自分の最後の言葉として語っているものです。まだ死にたくないと、あからさまにジタバタしているものや、もうそれはやりつくして諦めたのか、死んだあとの自分の処遇に対する望みを語っているものが多いように思います。いずれにしても、自分がまもなく死ぬことがわかっているために、激しく、あるいはそこはかとなく、死に対する恐怖や苦しみがにじみ出ているように思います。

そんな「死期をさとってる」系の中で僕的にピンときたのがカールライスさんのこれ。

なるほど、これが死というものか。ところで……。

カールライスさんがどんな偉人なのかわからないところがアレですが、なかなか味わい深い「最期の言葉」だと思います。ちゃんと「かーるらいす」と入力しているのにもかかわらず、僕が愛用している「Google 日本語入力」によって勝手に「カールルイス」と変換されてしまう可哀想なカールライスさんですが、かなりユニークなことばで死を察知したことを伝えながら、それでもまだ別な話を続けようとしたところでプツリと亡くなっています。死を悟りながらも、まだまだ生きる気満々です。そばにいた人が「あっ。えっ、あれっ? 死んでる?」ってなりそうです。
僕がピンとくる「最期の言葉」はそういうものが多いことに気づきました。どうも僕はそういう死を迎えることを望んでいるようです。
事故とかで突然死んじゃうのは絶対イヤで、病気で長いあいだ寝たきりになって死ぬのもイヤ。理想としては、80歳くらいで、ちょっと風邪をこじらせて、家の布団で寝ていて、たまたま世話をしにきた家族の誰かと軽い会話をかわしながら、いつの間にか死にたいです。かなり高い理想であることは承知してます。これを実現するための第一の条件は「自分の死を察知してない」ということです。偉人たちのことばの中にも「察知しない」系がいくつかあります。一番ピンときたのが、画家ピカソのこれ。

なにか飲み物をくれ。

ほぼ僕の理想に近いと思われます。まだまだ生きる気満々。長いあいだ僕の中でナンバーワンの「最期の言葉」だったのですが、これを越えることばが見つかりました。日本の喜劇作家で東京都知事も務めた青島幸男さんのこのことば。

ママ、ビール飲もうよ

ピカソと状況はすごく似ていて、望んでいることも似ているのですが、その差は歴然です。ピカソは自分にことしか考えていませんが、青島さんは奥さんとおいしいビールを飲んで楽しもうとしています。

僕は、こんなふうに死にたい。

Posted at 時刻: 8月 17, 2011 on 2011/08/17 | 0 コメント | Filed under:

「おおもり」のこと

このまえ家族でそば屋へ行ったときのこと。

それぞれ注文した品がテーブルに届いて食べ始めたころ、娘がトイレへ行きたいというので連れて行った。席へもどる途中、注文取りの女性が厨房へ向かって「おおもりふたつでーす」と声をかけているのが聞こえた。様子からして、僕らのあとに入ってきて隣の席に座った男性二人組の注文らしい。しかし「おおもり」ってなんだろう? 「大盛り」か「普通盛り」かだけで注文が通ってしまうメニューがあるんだろうか? なんてことを考えながら続きを食べていると、ほどなくしてその二人組のところに注文の品が届いた。それをみて、なるほど「もりそば」の「大」で「大もり」ことだったのか、と気づいた。

しかしこの二人組、本当に二人組なんだろうか? その二人が座るのは小上がりの端っこの席で、スペースの都合で長い方の辺が壁にぴったりくっつけられている。僕ら家族4人が座っているのと同じ大きさの座卓だけれど、その配置のおかげで2人か3人までしか座れない。そのテーブルに彼らふたりは、長い辺の左端にひとり、小上がりの上り口側にむいた右側の短い辺にひとりと、二人組としてはちょっと奇妙な距離感をとって座っている。そして注文の品が届くまでのあいだ、僕が見た限りではひとことも会話を交わしていない。お互いに視線を合わせるのが気まずいかのように別々な方向を見ながら手持ち無沙汰にしていた。この二人が入ってきたときの様子はよく見ていなかったし、注文を伝えるときは席を離れていたためにまったく見ていなくてよくわからないけれど、この二人はもしかすると、たまたま相席しただけの別々の客なのかもしれない。

二人組なのか別々の一人組なのかは別として、いずれにしてもこの二人はなんだか落ち着かなくてさえない感じだった。それが、注文した「大もり」が届いた途端に豹変した。とはいえ、座卓の長い辺の左端に座った人は、僕に背中を向けて座っていたために様子がわからないので、右側に座った人に限ってのことだけれど。

その人はまず、ざるの上に高く盛られた「大もり」のそばをひとすじ箸でつまみ、つゆにつけずにそのままズウゥっと吸い込んだ。口の中のそばをかなり速いリズムで噛みながら、日焼けした無表情な顔に一瞬、満足気な表情が浮かんだように見えた。そばをそんなふうに食べる人を初めてみたので、僕の視線はその人に釘付けになってしまった。次にその人は、ちょっと少なめに3〜4本のそばを箸でつまみ、つゆにつけて食べ始めた。そばを箸でつまみ、つゆにつけて食べる動きはとてもリズミカルで、そばを食べること自体を楽しんでいるように見えた。その動きを4〜5回続けたあと、ようやく薬味の皿に手を伸ばした。しかしつゆに入れたのは刻んだネギとシソだけ。わさびはそのまま皿の上だ。そのつゆでまた2〜3箸分食べたあと、ついに箸がわさびに伸びた。しかし箸にとったわさびはつゆには向かわず、そろそろ「普通もり」くらいになってきたそばの山の上へ行き、表面をちょんちょんと撫でるように動かした。そばの表面に少しずつわさびを散らしているようだ。刺身を食べる時、わさびをしょうゆに溶かさずに、刺身に直接わさびを乗せて食べるのと同じ感覚だろうか。わさびを乗せたそばを口にすると、またほのかに満足気な表情を浮かべたように見えた。

なんだろう、このカッコいい「大もり」の食べ方は。そばに対する愛情を感じる。そしてなにより食べてる様子が楽しげだ。さらにはメチャメチャうまそうだ。

それにひきかえ僕はどうだ。目の前にある、さっき食べ終わったばかりの「大天ざる」が乗ったお盆を隠してしまいたい気分だった。

そこで家族みんなが食べ終わり、帰ろうというので席をたつことにした。あの人がそのあとどうやってそば湯を楽しむのか見たい気もしたけれど、「大天ざる」を食べた僕が、今あの人の「作法」を全部知ってしまってはいけないような気もした。

店の暖簾をくぐるとき、今度はぜったい「大もり」を頼もうと心に決めた。

Posted at 時刻: 8月 08, 2011 on 2011/08/08 | 0 コメント | Filed under: ,

はじめて考えるときのように / 野矢 茂樹

いま大活躍中の若手建築家、サポーズデザイン谷尻誠さんの愛読書だということで買ってみました。谷尻さんは新しい建築のアイデアを考えるときに、たびたび取り出しては繰り返し読んでいるそうです。

考える 」ということについて、とことん考えたことを書かれた本です。
 「哲学的道案内 」となっているので小むずかしい内容かと思われるかもしれませんが、とても平易な文章で、ところどころにユーモア(村上春樹的)を交えながら書かれているので、とてもすんなりと読めて、とてもすんなりと内容がはいってきます。

「考える」ってどういうことでしょう? 「考えている」状態ってどういう状態でしょう? この本を読むと、「考える」というのは、ウンウンと唸りながらアイデアをひねり出そうとすることではない、ということがよくわかります。

考えるためには、まず考える対象、つまり問題を理解する必要があります。すぐに答えが出るような問題については考える必要がありません。学校のテストの問題のように、あらかじめ答えが用意されていて、解法の道筋を理解してしまえば解ける問題については、この本では「考える」対象にはなっていないようです。

と書き始めてみましたが、なんだかうまく説明できそうにないような気がしてきましたので、この本でそのあたりのことが書かれた部分を引用してみます。

ただお風呂に入っても、ぼくなんか「ウー」とか言うだけだけど、一度言ってみたいもんだ。ヘウレーカ!
でもそのためには問題をかかえていなくちゃいけない。アルキメデスは問題をかかえて、ビンビンにチューニングしてあったから、言えた。結果的に、お風呂に入ることが彼にとって一番効率的な考え方だったことになる。
「考える」てのは何したっていいんだ。

「スキップする」というのは特定の行為の型だけど、「考える」ってのはそれとぜんぜん違って、何か「考える」ことに特徴的な行為の型ではない。「考える」ということばは、そもそも何かすることに対してつけられた名前じゃないんだ。それはいろいろなことをすることだし、何もしなくたっていい。ただ、問題をかかえ、ヘウレーカの呼び声に耳を澄ますこと、研ぎ澄ますこと。
8年間、ひとつの問題をずっと考え続けていたっていうのも、だから、けっして嘘じゃない。その人はただひたすら、その問いを呼びかけ、かすかに聞こえるこだまに耳を澄ましていた。そしてほかの音がなるべく耳にはいらないようにしてたってわけだ。

問題をかかえこんでいる人にとっては、なんでもかんでもその問題に結びついてくる。お風呂にはいるのは、つまり体を洗って、お湯につかってあったまる、そういうことだけど、それが王様の冠なんかに結びついてくる。
逆に言えば、なんにもほかのことと結び付けないで、お風呂をお風呂それだけのものとして楽しむというのが、なーんにも考えないでお風呂に入るってこと。いや、お風呂ぐらいそうしたいものだけどね。じっさい、考える人の不幸はそこにある。お風呂をお風呂だけで、食事を食事だけで楽しめなくなる。見るもの触れるものが、その問題に関係した顔つきになってくる。自分のまわりのものごとが問題に彩られてしまう。
そして、「ヘウレーカ」の声を待つ、過敏な楽器みたいになっている。

この文章は、この本の第1章のわりと最初のほうに登場します。このあとも延々と考えることについて考えていきます。6章まであります。このあと、論理的思考について、ことばを鍛えることについて、外へ出ること、話し合うことの重要性について書かれています。つまり、うまく考えるために、考える技術について書かれているわけです。でも最初の、引用した部分の衝撃が大きくて、あとの部分はちょっとかすんでしまった印象です。
この本を読んでわかったのは、考えるときに重要なのは、頭の中から引き出してくるために知識をしっかりと蓄えること。問いそのものに対して問い直すこと。そして話し合うことによって問いの核心に近づいたり、考えを深めたり定着させたりすること。

そしてさらにわかったのは、僕がここ数年、日頃タンブラーやこのブログでやっていることは、知識を吸収したり、考えをかたちにしたり、話し合いによって考えを深めたり核心に近づいたりという作業を、もしかするとかなり効率よくできているかもなぁということでした。
そしてそれに気づき、そう思えたことは、かなりうれしかったかもしれません。


はじめて考えるときのように―「わかる」ための哲学的道案内
発売元: PHPエディターズグループ
発売日: 2001/02
売上ランキング: 129993

Posted at 時刻: 7月 13, 2011 on 2011/07/13 | 0 コメント | Filed under: ,

世界ふれあい街歩き / アヌシー

「アルプスが見える街」シリーズの第1回目。このシリーズ、かなり期待できそうです。

アヌシーは「アルプスのベニス」と呼ばれるフランスの街で、そう呼ばれるとおりに街の中にとても感じのいい水路が巡ってます。巡ってます、と書いたものの、その水路はベニスのように入り組んで入り乱れてるわけではなくて、シンプルに湖から流れ出る川が1本流れているだけで、その支流がちょっとあるくらい。ティウー川というその川は、湖の水位を一定に保つことを担っているそうで、流れはとても穏やかで、まるで流れてないように見えるほどです。
そしてその水はヨーロッパ屈指の透明度を誇るそうで、見てるとつい手ですくって飲んでみたくなります。光線の加減で、水面は爽やかなグリーンやブルーに光って見えてとても綺麗です。白鳥が泳いでたりなんかもするし。

シンプルな水路ではありますが、さすが「アルプスのベニス」と呼ばれるだけのことはあって、水路に面した街路には何百年も前から建つ石造りの建物が並び、いい感じに橋がかかって、つい巡ってみたくなる、ほどよい複雑さを感じさせます。
これはヨーロッパの街の人たちに共通することですが、みなさん街の古さや建物の古さをとても自慢気に語ります。古い街や建物に、しっとりとした歴史を感じながら住むことを心から楽しんでいて、設備の古さなどによる不便さは苦にならないよ、という話も、何度も耳にしたことがあります。

しかし、この街に漂う爽やかさや、ゆったりとのんびりした雰囲気は感動ものです。僕の中で、一度は行ってみたい街のひとつに登録されました。ベニスもそのひとつなのですが、ベニスの魅力はやはり、迷路のように入り組んだ水路や街路だけでなく、街全体に漂う淫靡な猥雑さや、地盤沈下や海面上昇によって沈みつつあるという終末感にあると思います。そんなベニスでも、その街に住む人々は口々に「不便さは苦にならない」と、歴史ある街に住んでいることを自慢します。みんなこの先の歴史の一部となる日常を楽しんでいる感じがします。

その一方で、福島の幼稚園児たちの日常は、外で遊ぶことを制限され、いくら暑くても長袖を着て、息苦しくてもマスクの着用を義務づけられています。

なんだかやりきれない気分にさせられますね。

Posted at 時刻: 6月 14, 2011 on 2011/06/14 | 0 コメント | Filed under: ,

建築はほほえむ ― 目地・継ぎ目・小さき場 / 松山 巌

あなたが好きだな、気持ちがいいな
と感じる場所について考えてみよう。

このフレーズを繰り返しながら、とても軽やかに進んでいきます。
そのなかで何回か目からウロコが落ちました。

まずコレ。有名なコルビュジェの言葉を取り上げたところ。

「住宅は住むための機械」とは、20世紀を代表する建築家ル・コルビュジエが1924年に語った有名な言葉だ。
彼はしかし、その言葉を住むために必要な、住宅の「ふたつの目的」の「第1の」目的としてあげたのである。「作業における迅速、正確さを得るために私たちに効果的な助力を供すべく定められた機械、身体の様々な欲求 ー 快 ー を満足させるための親切で行き届いた機械」として「住宅は住むための機械」だと語った。
ところが、ル・コルビュジエが住宅にとってほんとうに重要な目的だと語ったのは。じつは第2の目的だった。
住宅は次には沈思黙考のための肝要必須の場でもあり、そこには美が存在し、人間にとって欠くことのできない静逸を心にもたらす、そんな場でもあります。……住宅は或る種の精神のためには美の感覚をもたらすべきだと言っているのです。(「エスプリ・ヌーヴォー」山口智之訳)
ル・コルビュジエは第1の目的「住宅は住むための機械」をもたらすのは技術者の仕事であり、第2の目的の中にこそ「建築がある」と発言した。つまり第2の目的こそ建築家の仕事だと彼は表明した。にもかかわらず、「住むための機械」という言葉だけが独り歩きし、広く流布したのは、20世紀がテクノロジー礼賛の世紀であり、テクノロジーへのおそれが生まれた世紀だったからだ。

これにはビックリでした。こんなの聞いたことなかった。大学の西洋建築史の授業で、こういうふうに教えてるところってないんじゃないだろうか。でもこれを読んで、逆に納得がいきました。だって「住むための機械」という言葉とコルビュジェの作風がうまく結びつかなくて、ずっと違和感を感じていたから。この言葉はきっと、合理性を追求して、華美な装飾を排した「インターナショナル・スタイル」を実現するための方便だったのではないだろうか、という気もしてきます。

そしてもうひとつ。

目地が「笑う」、継ぎ目が「笑う」という言葉も、建築の世界ではよく使われる。目地がゆるみ、継ぎ目が広がったという意味だ。
「笑う」のは悪いことだろうか。不合理なことだろうか。
地震などで力が急に加わったとき、目地は「笑う」。
長年、風や雨に晒されてきたとき、継ぎ目は「笑う」。
「笑う」のは建物が生きているからだ。
(中略)
建物と建物のすきまや道路も目地であり、継ぎ目である。
街が生きている限り、
街の目地も継ぎ目も、
いつもどこかしら「笑って」いて、
どこかしら緊張している。
街のなかで、もしも子供たちが遊べないとしたら、街の目地や継ぎ目はいつも緊張しているのだ。緊張しているのは、時間と場所のすきまがないためだ。

僕の好きなテレビ番組「世界ふれあい街歩き」では、とにかく執拗に路地を攻めます。路地には、そこに沿って建つ住まいから生活が溢れ出し、賑わい、活気づく。頭の上には洗濯物がはためき、老夫婦が手すりに腰掛けてひなたぼっこをし、子供たちは自転車を乗りまわしたり、サッカーに興じたりする。そしてその路地にいる人達に尋ねると必ずこう答えます。「暮らしやすいこの街が大好きだ」。

そうだ目地だ。モノとモノが接するところに生じる「目地」「継ぎ目」。建築の設計で詳細部分の設計のことを「納まり」といいますが、以前に勤めていた設計事務所の上司に『材料と材料が接するところに「納まり」が出てくるから、そこを捉えてひとつひとつ詰めていくと建物が納まっていくんだ』と教えられたことがあります。その納まりは建物を飛び出して街へ都市へと広がっていく。

すべては小さな目地からはじまっている。

建築はほほえむ―目地・継ぎ目・小さき場
発売元: 西田書店
発売日: 2004/04
売上ランキング: 155953

Posted at 時刻: 6月 04, 2011 on 2011/06/04 | 2 コメント | Filed under: ,

グッドタイムス&バッドタイムス / 佐野元春

3年前に旭川郊外の田園地帯から、都心部の住宅街へ移り住んできた。 そして昨年から小学校のPTAの仕事を引き受けている。最初の年はまだ片足を突っ込んだ程度だったけれど、今年は胸のあたりまでどっぷりと浸かった感じ。
PTAとは別に、これは引っ越してきた最初の年から、小中学校の「おやじの会」というのに参加している。毎月、例会と称して飲み会があったり、夏には親子キャンプをしたり、地域のお祭の縁日に出店したり、活発に活動している。
郊外に住んでいた頃にも、できるだけ地域の行事には参加するようにしてはいたけれど、都心部に越してから知り合いの数が爆発的に増えたと思う。郊外にいたころに知り合ったひとたちの半分はお年寄りばかりだったし。

そこに加えて4月から自宅で仕事をするようになって、娘の幼稚園の送り迎えや、週に2〜3回は夕食をつくるようなってからはスーパーへの買出しなどを、これは季節のいいあいだだけになると思うけれど、自転車でいくようになった。娘はぜったい自転車のほうが喜ぶし、僕もうしろから娘のご機嫌な鼻歌が聞こえてくるのが好きだし。車で走っていた同じ道を自転車で走るだけで、ずいぶんと見えてくる景色が変わるものだ。この時期の旭川は花盛りで、道路脇の家々の庭先に咲く花々を見るのが楽しい。

そんなふうにして街を自転車で走っていると、ときどき知り合いとすれ違ってあいさつを交わすことになる。そのほとんどがPTAで知り合った人たちばかりで、そうやってあいさつを交わすたびに、なんだかちょっとずつ気分が上がってくることに気づく。そして思い出したのが、むかし聴いた佐野元春のこのフレーズ。

グッドタイムス&バッドタイムス この街で
グッドタイムス&バッドタイムス 繰り返せば
ウィンクの数またひとつ 増えていく

僕がウィンクすると気持ち悪がられるので、軽く会釈するくらいだけれど。

とはいえ、かなり増えてきた僕の「ウィンクの数」も、幼稚園にお迎えにいった帰り道、娘が下校途中の小学生の友達と交わすあいさつの数にはまだまだかなわない。


    BACK TO THE STREET
    アーチスト: 佐野元春
    レーベル: エピックレコードジャパン
    価格: ¥ 2,531 (11% OFF)
    発売日: 1992/08/29
    売上ランキング: 38951

    Posted at 時刻: 6月 02, 2011 on 2011/06/02 | 0 コメント | Filed under: , ,

    いま使ってる1920×1080の壁紙いろいろ

    SugerSync のアルバムを使って公開します。

    リンク先のサムネールをクリックすると大きな画像で見ることができます。そこで気に入ったものを1枚ずつダウンロードすることができます。またリンク先の右側のサイドバーからアルバム内の画像すべてを一度にダンロードすることができます。


    ところで、SugerSync は DropBox とよく似たオンラインストレージサービスで、詳しくは以前にここに書いたこの記事をどうぞ。

    上の記事の一番下に貼ったリンクから SugerSync または DropBox へ飛んでこのサービスを利用し始めてくださると、僕のところに容量アップのボーナスが届きます。実はもう僕のアカウントはどちらも無料プランなのですが、すでに DropBox は4.75GBまで、SugerSync は31.25GBまで増量されています。

    僕の貼ったリンクから登録してくださったみなさんに、この場でお礼を申し上げます。ありがとうございました。

    いま現在、仕事のファイルはすべて SugerSync でバックアップをとっています。まだ始めたばかりでファイルが少ないので、これだけの容量があれば心配ありません。もうしばらくたって、バックアップするボリュームが増えてきたらなにか考えなければならないかもしれません。もしかするとどちらかを有料プランに移行するかもしれません。

    Posted at 時刻: 5月 31, 2011 on 2011/05/31 | 1 コメント | Filed under: ,

    ぜんぶ僕ら自身に跳ねかえってくるんだゼ

    この前、関東から引っ越してきたというお母さんからこんな話を聞いた。関東の小学校の徒競走ではゴールの10メートル手前で一度みんな止まって整列して、そこから行進してみんな一緒にゴールインするのだそうだ。ばっかみたいでしょ、と言ったそのお母さんはこう続けた。でもね、そうなったのはみんな親が小学校に「うちの子はいつもビリで不公平だ」と苦情を出したからで、学校はその苦情を理不尽だと思いながらも誠意(?)をもって従ったからなんですよ。

    それとは関係なく、ちきりんさんがこんなことを書いてた。

    御用学者がどうの癒着がどうのというけれど、突き詰めれば「原発を利用しながら、豊富な電力を得て利便性の高い社会を作ろうとしていたのは、まさに日本の国民(有権者)の民主的な意思決定の結果だった」とちきりんは理解しています。

    その意思決定に伴う損害を、今は福島県の人が一身に背負わされているのだから、その補償のために東電の資産で足りない分を国民全員で負担するのは当然だと思います。

    これ読んで、目からウロコが落ちた。ぽろぽろぽろぽろキリがないくらい。そうそうそうそう、そういえばそうだ。なんか間違えてた。かといって東電の取締役とかがイケスカナイのは変わりないけど。

    結局のところ、その社会の状態というのは、その社会を構成するひとたちが望んだ状態なのだ。政治家が悪いとか、企業が悪いとか、みんないろんなこと言うけれど、政治家は自分を支持してくれるたくさんのひとたちの要求を叶えようと活動した結果だし、企業はといえば、経済というのはとても正直なもので、消費者が望んだとおりに商品を開発し、販売した結果だ。それがうまくできなかったところは潰れて、うまくできたところだけが生き残っていく。ぜんぶ国民が、消費者が望んだ状態だ。

    東北の震災が起こって、福島の原発の事故が起こって、国難とも呼べる危機的状態になって、そんななかでこれは日本が生まれ変わるチャンスだという人がいた。「すべてがあるけれど希望だけがない国」が震災の危機的状況に陥ったとき、その危機の中に思いがけず希望の光を見た人もいた。

    でも、どうも生まれかわれそうにはなさそうだ。あの震災直後に社会全体が大混乱に陥った中で僕らが望んでいたのは、政治家や企業が変わってくれることで、僕ら自身が変わるのは社会が変わってからだと思っていたから。それじゃ甘い。それじゃ変わらない。まず自分が変わる。そのあとでみんなが変わってくる。それじゃなきゃ変わらない。

    Posted at 時刻: 5月 24, 2011 on 2011/05/24 | 0 コメント | Filed under:

    開業に向けて作ったものインストールしたものいろいろ

    まず、つくったものいろいろ。
    なにはなくともホームページ(この呼び方なんとかならんのか)ということで作りました。

    プラットフォームはタンブラーNOTATIONという無料のテンプレートをベースに、背景を変えたり日本語フォントを変えたりしてます。お問い合わせフォームはタンブラーの「Pages」機能で作ったページに Google ドキュメントで作ったフォームを貼りつけてます。作品と呼べるものが少ないので、ウェブで拾ってきた好きな建築やインテリアの写真がメインですが、これで僕のことをだいぶわかってもらえるのではないかと思っています。今後は作品集のアンビルドのところへ誰にも頼まれずに作った計画案の図面を増やしていく予定です。実作が増えるが一番いいんだけど。
    このサイトにかかっている費用はお名前ドットコムで取得したドメイン名管理料が特価で年間 500円のみ。エライ時代になったものです。

    他人の力を大きく借りて作ったサイトですが、できあがりには大変満足しておりまして、このサイトデザインをベースにして MooMiniCards 風の名刺を作ってみました。

    ケースは Moo のもので、サイズもMoo のと同じです。実は最初に Mooで両面とも画像にして作ったのですが、僕のミスで裏面の文字が小さすぎてかなり読みにくいものが届いてしまい、もう開業に間に合わないというタイミングで困り果てて知り合いの広告代理店の方に相談したところ、開業のご祝儀ということで無料で名刺を作ってくれるというのでお言葉に甘えました。渡したかた皆さんに好評で、渡してひと月ほどしてからアポイントの電話を入れたら、印象深い名刺でよく覚えてますよ、と言われて嬉しかったこともあります。

    次にインストールしたものいろいろ。

    まず MacBook Air で Windows を走らせるためにコレ。

    いろいろ調べて、BootCamp はめんどうだからダメそうなので、仮想OSしかないということわかりました。無料なんだからダメもとでということでやってみたコレが思いのほか快適でした。シームレスモードはマジさいこー。サイトは英語ですがアプリは日本語化されてます。これで走らせた Win で、エクセル・ワード・JW_CAD・構造計算ソフト・会計ソフトなどを使ってます。

    そしてマックでウィンドウズを走らせたとき、アップル社製キーボードだと使えないこともないけどかなり使いにくいので、そんなときはこれオススメしてます。

    これで魔法のように使えるようになります。

    ということで環境はバッチリなので、あとは仕事だけです(←意外と冷静)。

    Posted at 時刻: 5月 23, 2011 on 2011/05/23 | 0 コメント | Filed under: ,

    独立開業にむけて買ったものいろいろ

    務めていた会社を3月いっぱいで退職し、4月から自宅で建築設計事務所を開業しました。始めるにあたって購入したいろいろなものをご紹介します。

    最初は iMac を買おうと思っていろいろと検討してました。キャドで作業するのに広い画面が欲しかったから。でもプレゼンなんかで持ち出したりしたいこともあるだろうし、そのときは家族と共用してる MacBook ではいろいろと都合が悪いし、新しいノートがいるゾと白羽の矢がたったのが下のコレ。

    Apple MacBook Air 2.13GHz 13.3インチ MC234J/A
    メーカー: アップル
    発売日: 2009/06/10
    売上ランキング: 79052

    SSD256MBでメモリーは2GB。JISキーボードの標準品。ヤマダ電機でポイントがいつもの倍つくということで即決しました。ポイントつけたらカカクコムで調べた最安値より安かったので。それなのに支払いをカードでしたらポイント引かれてしまい、もらったポイントで下のマウスとか AirMacExtreme など経費で計上できるものを買ってしまい、ポイントを引いた分しか計上できないという失敗を犯してしまいました。もらったポイントでは買い替え時を迎えて久しいホットプレートを買えば良かった。まぁカードのほうでポイントついてるからいいとしますか。
    それにしても SSD は快適です。購入前に読み聞きしていた評判通りで、アプリの起動もシステムの再起動もサクサクするし、熱くならない、うるさくない、これにCPUも記憶媒体もつんでるとは信じがたい薄さ軽さ。で、広い画面が欲しかったのに13.3インチディスプレイのノートを買ってしまいましたが、この問題は下のふたつで解消しました。

    acer G5シリーズ 23インチワイドTFTモニタ  ブラック G235HBMD
    メーカー: 日本エイサー
    価格: ¥ 12,800
    発売日: 2010/01/28
    売上ランキング: 150
    エルゴトロン LX Desk Mount LCD Arm 45-241-026
    メーカー: エルゴトロン
    価格: ¥ 13,350
    売上ランキング: 554

    アップルの外部ディスプレイ出力用ケーブルを購入して、下のアームに取り付けた上のディスプレイに出力してます。ディスプレイは発色に若干の不満はあるものの値段がこれなら十分に納得してます。アームは見た目通り期待通りの動きで納得。もっともっと安いアームも見つけたのに、つくりや動きのチャチさが気に入らなくてコレにしたのですが、一度セットしてしまえばほとんど動かすことがないことに最近ようやく気づいて、安いのでも良かったかな、という気もしてます。

    Apple Magic Mouse MB829J/A
    メーカー: アップル
    価格: ¥ 6,491 (5% OFF)
    発売日: 2009/10/31
    売上ランキング: 419

    ふだんはトラックパッドで十分なのですが、さすがに図面描くときはマウスが必要、ということで購入したのが上。ワイアレス快適。電池はほとんどなくなりません。まぁ常時使ってるわけじゃないからかもしれませんが。スクロールホイールがなくて表面がトラックパッドのようになっているのですが、触ってないのに画面がスクロールしていってしまうという怪現象が起こるので、スクロールの慣性は「なし」で使ってます。それでもたまに怪現象は起こりますが「あり」の時ほどではないのでよしとしてます。

    Brother JUSTIO A3インクジェットFAX複合機 MFC-6890CN
    メーカー: ブラザー工業
    価格: ¥ 51,997
    発売日: 2009/06/02
    売上ランキング: 12874

    そして、A3カラーの図面出力とA4の構造計算書の出力を考慮して上のプリンターを購入。これのスゴいのはA4の両面自動プリントができるところ。片面で構造計算書を出力するとありえない厚さになるし、奇数ページだけ出力してから裏返して偶数ページ出力とかできなくもないですが、それだけ手間かけて途中で紙詰まりとかされるともうあたまがメルトダウンしかねないので(←不謹慎)。

    そしてできあがったのがこちら。

    自宅の階段の踊場に作った書斎で仕事してます。当面はここの予定です。普段は MacBook Air のディスプレイは真っ暗にしてます。消費電力が少なくてすみ、バッテリーが長持ちします。仕事中はこのディスプレイの上に図面などの資料を置いてます。たまに資料をどけてデュアルディスプレイにしたりもしますが。

    あと、フリーになったので、お仕事の依頼を受けるのに必須だろうということで、それまでかたくなに持つことを拒んでいた携帯電話を購入しました。しかしいまだに突然ポケットの中で震えながら鳴り出す物体を持ち歩くことに慣れないでいます。

    ということで、なんとかやってます。次回は開業に向けて作ったものとかインストールしたものとかを特集します。お楽しみに。ただし楽しいのかどうかは不明。

    Posted at 時刻: 5月 22, 2011 on 2011/05/22 | 2 コメント | Filed under: , ,

    1Q84 / 村上春樹

    禿げしくイマサラながら読み終わりました。本当は3月の中頃に読み終わって、ここに感想なども書こうと思っていたところへあの震災がやってきて、そのあと独立開業なんてこともあって、さらにイマサラ感が増しておりますが、そんなイマサラにも負けずに書いてみます。

    まず最初に感じたのは、僕がいまだに村上春樹の最高傑作だと思っている「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」との類似性です。
    ふたつの話が同時に進行していき、それが交互にあらわれる手法。そしてそのふたつの話が徐々に交わっていく感じ。なにか得体のしれない「世界の終り」的なるものに向かって進んでいくストーリー。やみくろとリトル・ピープル。

    なんか気になって調べてみると、見つけました。

    1985年(昭和60年)に新潮社から刊行され、後に新潮文庫として上下巻で文庫化された。
    『ノルウェイの森』(単行本)のあとがきの中で、村上はこの小説を自伝的な小説であると位置づけている。

    なんと「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」は「1Q84」の舞台となっている1984年の翌年に刊行されています。つまりそれは、その大部分が1984年に執筆されていたことを表しているとも言えます。また村上春樹本人によって「世界の終り…」は自伝的な小説であると語られています。自伝的な小説を書いたこの年は、彼にとって特別な年として認識されていたとしても不思議ではなく、その年を舞台として設定され、タイトルとしても使われた小説が、その年に書かれて設定や手法が似ている自伝的小説と密接に関連していると考えるのはとても素直な結果です。

    もしかすると「1Q84」は、再度書かれた自伝的小説なのかもしれませんね。

    とか言って「まず最初に感じた」部分だけ書いておわりにしようとしてますけど、いいのかな? いいよね、いいよいいよ、いいのっ。


    1Q84 BOOK 1
    発売元: 新潮社
    価格: ¥ 1,890
    発売日: 2009/05/29
    売上ランキング: 912

    世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド〈上〉 (新潮文庫)
    発売元: 新潮社
    発売日: 1988/10
    売上ランキング: 11695

    Posted at 時刻: 5月 21, 2011 on 2011/05/21 | 0 コメント | Filed under: ,

    「いつもきれいに使っていただいてありがとうございます」について

    たまにトイレの壁などに見かけるアレ。「みなさんのトイレです。きれいに使ってください。」としないところが好評で、いろんなところで一気に広まったアレです。

    婉曲な表現で相手の気分を害さないようにしていて、とてもこなれた表現です。しかしこれはコンビニのトイレのような場所に貼ってあるのならばいいのですが、たとえば高級ホテルや会員制ゴルフクラブのクラブハウスのトイレに貼ってあると、とたんに人々の気分を害することになってしまうと思うのです。

    ある程度ちゃんと人であれば、たくさんの人たちが使うトイレを誤って汚してしまったら、当然のこととして自分できれいにするし、そもそも滅多に汚してしまったりしないのかもしれません。自分の子どもがトイレを使ったら、汚したまま出てきてはいないかチェックしたりもするかもしれません。

    しかしそうじゃない人達もやっぱりいて、そしてちゃんとした人たちはそういう人達がいるってこともちゃんと理解していて、だからコンビニのトイレのような場所に「いつもきれいに使って・・・」と貼ってあっても受け入れることができます。
    でも、ある程度ちゃんとした人でないと立ち入ることができないと認識されていて、その認識のもとに運営されているような場所では、そういった掲示はあってはならないのです。それがあることで、その場所の「格」を著しく下げることになってしまい、その場にいる人たちの気分を害してしまうからです。

    サービスを提供する人たちは、どういう人達をターゲットにしているのか、そのサービスを求めてやってくる人たちはどんな人たちなのかをよく理解しておかないと、とんでもない間違いを犯してしまうのかもしれません。

    Posted at 時刻: 3月 04, 2011 on 2011/03/04 | 0 コメント | Filed under:

    仕事は段取りがほぼすべて

    きっとみんな知っていることで、明白な事実なんだけど、つい忘れてしまっていること。

    たとえば学生時代にみんな受けてる試験。がんばらなきゃいけないのは試験までの勉強期間であって、試験当日はその成果をうまく出しきるだけです。 試験で良い結果を得るために、試験当日にできることってほとんどないと言ってもいい。

    たとえば駅の改札口。ふつうはみんな改札を通るずいぶん前から財布なりカバンなりから切符を取り出して用意しておく。たまに改札の目の前に来てからゴソゴソと切符を探しはじめる人がいるけれど、そういう人のうしろでは何人もの人が立ち止まり、人の流れが滞ってしまう。

    こうやって書くと、本当に当たり前のこと。
    でもなぜかつい忘れてしまうことがある。
    肝に銘じておこう。

    Posted at 時刻: 1月 30, 2011 on 2011/01/30 | 0 コメント | Filed under:

    最近ツイッターであったいくつかの出来事

    ツイッターは楽しい。でも、いつも常に楽しいというわけではない。普段は、ある意味自分勝手に、虚空に向かってつぶやいてるだけって感じ。この行為自体は楽しくもなんともない。
    あと、何人かの人のツイートは読み逃さないようにフィードリーダーで読んでいて、示唆深いツイートがあったら「お気に入り」の星をつけてリツイートしたりタンブラーにクオートポストしたりしてます。それだって特に楽しいって感じではない。
    いま現在、756人をフォローしていて、605人にフォローされています。基本的にタイムラインは追いかけてません。

    それでなにが楽しいのかというと、思いがけない人から思いがけないリプライをもらった時が楽しいのです。たとえばこれ。

    twitter.com

    北海道ローカルの話で申し訳ありませんが、職場でいつも聞いてるFMラジオの番組で「リーフ」というのがあるんですが、その番組のDJの北川久仁子さんが産休で何ヶ月か休んでいて、久々に復帰してきて最初の一言を聞いてツイートした僕のひとことに AIR-G’FM北海道の人が「ふふふ。。」とリプライをくれたのです。それに僕は「うふふ。。」と返したわけです。ただし、ノリでそうなっただけでオカマではありませんので誤解のないように。

    僕はラジオ番組にはがきやメールやファックスを送ったことがないのですが、自分の送ったメッセージが番組内で読まれて感想をもらったのと似ているような気がしますが、番組に向けてメッセージを発したわけではなく、虚空に向けたつぶやきを見つけてもらった喜びは、それとは異質かもしれません。

    それからこれ。

     twitter.com3

    僕の「毎日かあさん」のポスターを見たというツイートを見つけて、その映画の監督さんがリプライをくれました。そして、

    twitter.com4

    上映情報まで教えていただきました。なんともありがたいことです。

    あと、なにかがわからなくて「わからないよー」とつぶやいたら、詳しい人がリプライで丁寧に教えてくれた、なんてこともありました。

    僕はこんなふうにしてツイッターを楽しんでいます。

    Posted at 時刻: 1月 29, 2011 on 2011/01/29 | 0 コメント | Filed under: ,

    女子大生が有名人のデートを見つけてツイートした事件のこと

    あるホテルのレストランでバイトしていた女子大生が、有名人カップルの来店を見つけてツイートしたそうだ。世間は今、その有名人カップルのデートのことよりも、その女子大生がツイートしたことを問題にして大騒ぎになっている。ホテルは謝罪のコメントを出したそうだ。

    よくわからないのは、この女子大生がツイートしたことがそんなに悪いことなのか?ということだ。
    これをマスコミがやっていたら、なにも問題にはなっていなかっただろう。でもマスコミはこんなに簡単にツイートしたりはしない。だってせっかくのスクープが軽く扱われてしまうから。ちゃんと面白おかしく肉付けをして、できれば写真なんかも添えて、大きな見出しと共に発表しただろう。

    ちょっと前に大桃美代子さんのツイートが話題になっていた。別れた夫の不倫を暴露したあれだ。不倫の相手が麻木久仁子さんだったことも衝撃的だった。あのときも不倫された側の大桃さんが、軽々しくツイートしたことを謝罪する会見を開いた。どうしてだろう?と、なんだかよくわからないでいたら、なるほどと思わせてくれる記事があった。

    とはいえ、彼女は干されるだろう。
    理由は、テレビ業界の人間にとって、インサイダー情報の漏洩は掟破りだからだ。
    掟は、法よりも厳格なものだ。
    暴力団の構成員は、法を犯すことをためらわない一方で、仲間内の掟を破る人間を絶対に許さない。テレビの人たちも同じだ。彼等は、基本的には、発覚しない限り、何をやってもかまわないと考えている。でも、同族の掟を破る人間はどんなことがあっても許さない。彼等は、少女買春にかかわった人間や、覚せい剤で逮捕された仲間でも、時間がたてば許すことにしている。が、業界の仁義をないがしろにしたメンバー(沢尻エリカとか)は永遠にハブる。そういう人たちなのだ。

    なるほど。「インサイダー情報の漏洩」だったわけだ。しかしそんなの僕達にはなんにも関係ない。マスコミの勝手だ。
    しかしおもしろいのは、現実はこの記事での予想とは逆になって、麻木さんは活動自粛を発表し、大桃さんはこれまでどおりに活動しているらしい。どこかで力関係が狂ってきているのかもしれない。

    こうやって考えると、女子大生のツイートに本当に怒っているのは誰なのかがおぼろげに見えてくるような気がしておもしろいようなおもしろくないような。

    Posted at 時刻: 1月 14, 2011 on 2011/01/14 | 0 コメント | Filed under: , ,

    「とまとの里 信濃路」監修 とまとら~めん

    年末に年賀状も大掃除も片付いたところで買出しに行ったスーパーで見つけたのがコレ。

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    大学卒業後にちょうど10年間過ごした大阪で、たくさんの色々な美味しいお店を見つけました。梅田はがくれのかまたまインディアンカレーの大玉。揚子江ラーメンの排骨ラーメン。グリル ピエロのハンバーグ定食。天下一品のこってり。などなど。

    どれもこれもコッテリ系で、このころの食生活が今の僕のわがままな体を形作っているのだなぁと、あらためて感じます。あ、でも今日はお昼にテキサス2を食べに行こうと思っているのだから、あのころとそれほど食生活が変わっているわけではないのかも。

    そんな僕の大阪時代に見つけて通ったお店の中でも、特にお気に入りだったのが上のとまとら~めんです。わりと職場の近所だったので、昼休みに会社の自転車に乗って行くことが多かったです。
    トマトベースのスープにチンゲン菜やセロリなんかが入っていてヘルシーであっさり系かと思いきや、にんにくをガッツり効かせたまさかのコッテリ系です。これを食べると、トマトの底力を思い知らされます。食べ終わって残ったスープにライスを入れてリゾット風にして食べるのがまた絶品です。

    この袋ラーメンで、あの味がどこまで再現されているのか半信半疑だったのですが、想像以上のおいしさと再現性にビックリです。子どもも一緒だったのでセロリは入れずにチンゲン菜と豚のスライス肉を入れてみました。細くて白いストレート麺は、ほぼお店のまま。スープもかなりいい感じです。セロリの香りがプラスされたらもっと良かった。子供たちにも大好評で、みんなぺろりとたいらげ、スープにご飯を入れてリゾットにして完食です。

    旭川では、少なともベストムでは入手可能です。スーパーで見かけたら一度試してみてはいかがでしょうか。オススメです。

    Posted at 時刻: 1月 12, 2011 on 2011/01/12 | 0 コメント | Filed under: