外部記憶に頼るということ

ひとりの人間の記憶の総量は一定だと聞いたことがあります。
だとすると、ある一定量までは記憶は増え続けますが、限界量に達した時点からは、ある記憶が増えたら、それと同じ量の別の記憶が忘れられていくことになります。なんだかちょっと恐ろしいですが、なんとなく信じられなくもないような気がします。
また、この記憶の限界量は個人差がほとんどない、ということも聞いたことがあります。
つまり世間的に物知りとされている人と、そうでもない人と、知っていることの量はそれほど差がないというわけです。物知りの人は他人から物知りと評価されるような分野のことを多く知っていて、そうでもない人はそうじゃない分野のことをたくさん知っているんだ、ということでした。

学生時代にテスト勉強をするときには、とにかく頭に記憶を詰め込みました。しかしある数学の先生からこう言われました。テストの時はそれでいいけれど、頭に詰め込める量には限界があるから、どの本やどのノートのどのあたりにこの重要なことが書かれている、ということを覚えておくとか、無味乾燥な公式を無理やり記憶するのではなくて、その公式を導き出すための考え方を記憶しておくとか、実際に記憶を役立たせるためには工夫が必要だ。ということでした。

この先生の言っていたことのひとつは、本やノートのような外部記憶装置を作れ、ということでした。しかしその頃と状況は変わり、様々な文章がデジタル化されてウェブに公開されている現代において、ウェブ上に、あるいは自分のパソコン上や携帯電話の中に、自分専用の外部記憶装置をつくることが手軽にできるようになりました。デジタル化によって記憶を残すための手間は激減し、残せる記憶の量は無限と言えるほどに激増しました。

たいへん便利になったものですが、いいことばかりではありません。すべての文章を手書きしていたのがワープロ化されたことによって、僕らはいまではひとたび手書きで文章を書こうとしたとき、ちゃんと覚えていたはずの漢字をすっかり忘れてしまっていることに気づきます。漢字の記憶をパソコンなどの外部記憶に頼った結果といえます。何人かの知人友人、何件かの得意先の電話番号は覚えていたものですが、携帯電話を手に入れ、その電話帳に書き込んだとたん、僕らの頭の中からそれらの電話番号はきれいに消え去りました。

僕は日々ウェブで見たものや読んだものを、タンブラーやはてなブックマークや Evernote に貯めこんでいって、必要なときには検索してすぐに引き出せるようにしています。これまでに貯めこんできた量はもうすでにちょっと見当もつかないものになっています。毎日たくさんの情報のシャワーを浴び、自分というフィルターを通して残ったものを蓄積していっているつもりです。ただ、検索して振り返ることがほとんどない事実は、見て見ぬふりしている感じです。
しかし、もうこのやり方を変えることはできないような気もしています。

僕らはこうして、たくさん入ってくる記憶と引き換えに、漢字をなくし、電話番号をなくし、あとはいったい何をなくすのか。もうすでにとてつもなく大切なものをなくしてしまっているような気がして、怖くなってきたりしませんか?


About this entry


0 コメント: