ありがとうの反対側

好きの反対は嫌いじゃなくて無関心。好きと嫌いは相手に興味を持ってるという意味では同じだ。というのがあって、ほほーなるほどー、なんて感心したのですが、それと同じように(同じなのか?)、ありがとうの反対は「当たり前」だそうです。これまた、ほほーなるほどー、ですね。

最初はいろいろと感謝の気持ちをもって過ごしているのですが、慣れとか慢心などによって、それがいつのまにか当たり前になってしまいます。それと同時に感謝の気持ちが失われていって、お互いに嫌っているわけではないのに、徐々に人間関係に亀裂が入っていきます。夫婦関係とかでありがちな気がします。いろんなことを当たり前だとは思わずに、感謝する気持ちを忘れないようにしないと、きっといろいろとまずいことが起こるよ、ということで結論づけていいかと思います。

しかし世の中はあまりにも多くの「当たり前」で溢れかえっています。当社調べによりますと、いま世の中にある「当たり前」は、「ありがとう」の実に4倍近い、ということらしいです。夫婦などの人間関係だけではなく、社会には技術革新によってもたらされた「当たり前」がホントにたっくさんあります。移動手段でいえば、徒歩で行っていたところを自転車で行くようになり、そのうちにバスや電車を利用するようになって、免許取ったからとかいって自家用車に乗って行ったりとか、遠いからとかいって飛行機で行くようになります。最初のうちは、便利だねーって感謝していたのに今ではもうぜんぶ当たり前です。連絡手段だと、飛脚に手紙を渡してたのが早馬を使うようになって、そのうち道端のポストに放りこんでおくと届くようになって、一家に一台電話がついて、そうこうするうちにファックスが登場して、なにコレ魔法?みたいになって、今ではなんでもメールになって、ラジオの世界からハガキ職人がいなくなりました。

たしかに便利になった。どんどん便利になった。そして、ものすごかったことがどんどん当たり前になった。しかし、いろいろな便利なことの裏にはたくさんの人が携わっていて、その人達には感謝しなきゃいけない、でもそんなの知ってるしみんな仕事でやってるんだしオレだって仕事してるし便利を手に入れるためにお金払ってるしー、みたいなことです。

いろいろと便利になることは無条件でいいことだと思われているけれど、それはつまり世の中にどんどん「当たり前」が増えることで、それと同時に「ありがとう」が少なくなっていく。これが本当にいいことなのかどうか、考えれば考えるほどわからなくなっていくよ。

Posted at 時刻: 11月 26, 2011 on 2011/11/26 | 0 コメント | Filed under: ,

問題は自然には発生しない

世の中には様々な問題が発生しています。このように書くと、問題は自然にできあがるもののように思いますが、実は問題が自然に発生することはない、ということに気づきました。自然に発生するのは事象や現象だけで、問題は必ず誰かによってつくられるものです。それはちょうど学校の先生が児童・生徒のために問題を作るのと同じように。

このようにして世の中に散在している問題とは、つまり社会問題と呼ばれるものです。この社会問題のやっかいなところのひとつは、学校の先生が児童・生徒のために作った問題とは違って、絶対の正解が存在しないところで、そのためにすっきりとすべてが解決されることないということです。だとしたら問題をつくりだし、それについて議論することは不毛なもののように思えてきます。にもかかわらず世の中は問題で溢れかえっています。これはどうしてなのでしょう?

これを理解するには、社会問題を作り上げている人たちのことを考えてみると良いと思います。問題の張本人のことではなくて、その人のことを、あるいはその現象・事象を取り上げて問題提起する人たちのことです。
問題提起する人たちは、実はその問題がすっきりと解決されることがないことをあらかじめ知っているように思います。にもかかわらず問題提起するのは、その目的が問題を解決することではなく、その問題について議論することだからではないかと思います。もちろんその議論は問題解決のために行われるわけですが、その問題提起の目的は問題解決ではなく、それについて議論することそのものなのではないか? ということです。なんだかややこしいですね。

どうしてそんなややこしいこしいことになるのかというと、それはきっと、問題について議論すること、あるいは問題提起をすること生業(なりわい)としている人たちがいるからなのではないかと思います。あるいは、その問題について議論を深めることにやりがいや生きがいを感じ、ライフワークとして取り組んでいる人たちもいるかもしれません。

このような視点で世の中にある様々な問題を眺めてみると、ちょっと別な見方ができるようになって面白いような気がします。(という問題提起でした。)

Posted at 時刻: 11月 05, 2011 on 2011/11/05 | 0 コメント | Filed under:

「仕事」と「生業(なりわい)」

生業(なりわい)とはそもそも本来、お金を稼ぐための仕事のことを指していて、仕事とは、それ以外のお金にならない仕事のことなのだそうです。現在では両方を仕事と呼んでいるので説明がややこしくなりますが、そういうことらしいです。
農家の方々が農作物を販売する行為は生業で、土を耕したりする行為は仕事ということになるそうです。でもこれだとちょっとわかりにくいかもしれません。商売など、生計を立てるための行為を生業と呼び、地域のお祭のお手伝いをしたり、そういったことの取りまとめを請われて引き受けたりといったことを仕事と呼ぶ、といったほうが分かりやすいかもしれません。仕事には、政治的な役割も含まれてくるような気もします。

明治初期くらいまでの日本では、男は仕事と生業の両方をきちんとやって、やっと一人前と認められるような風潮があったそうで、明治以降の人たちが生業一辺倒になってきているのを見て、それ以前の男達がなかなか一人前だと認めなかった、ということもあったようです。

それが今では、生業ということばは形骸化してしまって、生業と仕事を分けて考えることは無くなってしまいました。いまの大部分の男達にあるのは生業と趣味くらいかもしれません。かつては仕事として行われていた政治的な役割も、今ではそれを生業としている政治家も多くなってきているように見えます。

これらの考え方は、つい最近どこかで読んで知ったことなのですが、これが引っかかったのは、僕が独立して自分で仕事を始めていたからかもしれないなぁと思いました。勤めていたころは、その勤め先の中での福利厚生行事の手伝いなどの「仕事」的な行為もありましたが、務めている以上それらはすべて生業ということになると思います。
それが、独立して以来、仕事と生業は完全に分かれてみえてくるようになりました。独立と同じタイミングで小学校のPTAの仕事も引き受けることになって、そのPTA活動がけっこう活発だったこともあり、生業以外の活動のボリュームが増えたことも原因としてあるかもしれません。

そして最近、この仕事と生業の両立が、精神衛生上とても良いということに気づきました。生業は、いくら没頭してやっていても、どこかに閉塞感や無力感のようなものがつきまといます。家族を養うためのお金を稼ぐためだと割りきってやることも少なくないと思います。生業の中にやりがいを見つけることもあるかもしれませんが、それは生業の中にある「仕事」的な部分に見つかるような気がします。
一方、仕事には閉塞感や無力感は基本的にありません。やりがいや充実感で満たされていて、それを続けていくことで人間関係やいろんな世界が広がっていきます。少なくとも今はそんな気がしています。

僕がいま、独立してよかったなぁと思っている理由の一つがこれです。

Posted at 時刻: 11月 04, 2011 on 2011/11/04 | 0 コメント | Filed under: