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カワラナイモノ

最近の旭川はもうすっかり寒くなって、街は一面の雪景色です。この季節になると、晩酌には焼酎のお湯割りが登場することになります。できれば梅干し入りで。この焼酎のお湯割り梅入りですが、飲むときにちょっとしたお作法のようなものがあります。

一杯目は梅干のエキスをちょっとだけ出すように、グラスの底に沈めた梅を箸で少し突付くくらいで。二杯目は梅を二つに割って種を出し、果肉をあらわにして飲みます。三杯目は果肉を細かくバラバラにして、それをかき回してグラスの中を桜吹雪(梅吹雪?)のようにしながら飲みます。

一個の梅干でこれだけ楽しんだら、梅も梅干しになったことをさぞ喜んでいることでしょう。ところでこのお作法ですが、僕が生み出したわけではなく、20代の頃に見たテレビドラマの中で中井貴一さんがやっているのを見て覚えたのです。安い居酒屋のようなところで、いっしょに来ていた女性に、この飲み方をとても自慢気に教えていたのを覚えています。

それがどんなドラマで、いっしょにいた女性が誰だったのかが思い出せなかったので調べてみると、どうも「まだ恋は始まらない」だったようです。小泉今日子と中井貴一のダブル主演とありますので、いっしょにいた女性は小泉今日子さんだったのかもしれません。

このドラマを見ていた頃のことを思い出してみると、そのころ僕は結婚したばかりで、大阪の建築設計事務所に勤めていました。その会社にはちょうど10年間務めましたが、本当に仕事にどっぷり浸かりきっていた10年間で、毎日残業して帰宅するのは9時過ぎで、ゴールデンタイムのテレビ番組はほとんど見たことがなくて、この時期に流行っていたポピュラーソングなどはまったく知らなくてビックリします。そんな時期に毎回欠かさず録画してまでも見ていたドラマがこれです。とはいえ、まぁそういうドラマは他にも「オレンジデイズ」とか「ビバヒル」とかありますが。

僕はそのころ、焼酎なんて飲んだことがなくて、それを見ながら「へぇ、どんな味がするんだろう?」なんて思っていました。はじめて焼酎を飲んだのは、それから何年もたったあとだったはずです。今では焼酎の中でも匂いの強い芋焼酎を好んで飲むようになりました。立ち上る匂いを楽しむため、夏でもお湯割りにするくらいです。

ところで、中井貴一さんと小泉今日子さんといえば、最近やっていた「最後から二番目の恋」でもダブル主演し…

「佐野元春のザ・ソングライターズ」星野 源 Part1

この前、星野源さんがすごくいいことを言っていたのでご紹介。

佐野元春さんがソングライターをゲストに迎えて、作詞に関する様々なことを聞き出すテレビ番組に登場した星野源さんが、最近もてはやされている風潮とは全く逆で、しかし言われてみればたしかにそのとおりの、目からウロコの作詞姿勢について話していました。

星野さんは詩を書くときに、リスナーに共感してもらうことを求めていないそうです。求めていない、というよりも、はっきり、共感して欲しくないとおっしゃいました。それはどういうことかというと、共感というのは、同じことを経験したり、同じことを思っているだけであって、そこまでだ、というわけです。人はそれぞれみんな違って、ひとりひとりばらばらで、そのばらばらの人たちがつながるのが「共感」ではスゴくもったいないと。もっとその先の、自分が経験したことのない他人の経験を想像して、そこへ自分を投影することによってつながったら、もっともっといいんじゃないかということです。
それぞれが孤立したまま、自分というものをもったまま、一緒にいる、というのが理想なのだそうです。
そういう考えのもとに、老夫婦を主人公にした歌詞なんかを書いたりしているそうです。

なんだかこういう話を聞くと、facebook なんかで「いいね!」で共感を示してつながるコミュニケーションの底の浅さを感じざるを得ません。まぁそういうのも、しないよりはずっといいんだろうけれど。

歌うクジラ/村上龍

久しぶりに村上龍を読みました。

この小説が発表されたときに書店でこの本を見かけてタイトルにものすごく惹かれたけれど、結局読まずじまいでした。このまえ図書館へ行ったときにこの本があるのを見つけ、迷わず借りてきました。内容は、このタイトルから想像していたものとはまったく違うものでした。だって、クジラはほとんど出てきません。

近未来の日本の姿を圧倒的な筆力で描いた、あいかわらずの読者を圧倒する内容なのですが、その本筋とは少し離れたところで、僕の心をガシッと鷲掴みにした部分がありましたので紹介してみたいと思います。これだったらネタバレにならないだろうし、でも、もしかすると村上龍はこれを書きたいがためにこの長い小説を書いたんじゃないかと思えたりもしたりします。

それは下巻の中盤あたりにあります。33歳でノーベル賞を受賞して、日本政府によって長生きする遺伝子を注入されて、100年以上も生きているサツキと呼ばれる女が語る言葉として書かれています。サツキはまず、主人公のアキラにこう尋ねます。
アキラ、君はそもそも悲しみという感情を、どうして人間は必要としたか知っているの? 主人公がそれについて考えようとしたときに、ある出来事が起こってそのやりとりは中断され、しばらくしたあと、サツキはその答えについて話し始めます。
これまでの数えきれない歳月で親しい多くの人を失った。(中略)彼らや彼女たちを失うと、彼らや彼女たちを、心の中の、精神の隙間の、特定の場所に刻み込まなければならないでしょう? そのために悲しみという感情が必要なの。やっかいなことに、彼らや彼女たちの記憶を焼き付け刻みこんでくれるのは、悲しみだけらしいのよ。 なるほどそうか、そういうことだったのか。そしてこれを書きながら僕は、昔こんな記事を書いていたことを思い出しました。
悲しみなんて何の役にも立たないと思っていた。 おぼろげにつかんでいたものの輪郭がはっきり見えたような感じです。

そうそう電子版もあります。坂本龍一の音楽と、各章ごとに描かれたアートワーク付きです。この小説を書き上げた直後に iPad が発表されて、速攻で電子化およびリッチコンテンツ化に踏み切ったそうです。 村上龍 歌うクジラ on WEB村上龍 歌うクジラ そして、こちらは書籍版。 電子版と比較すると、倍以上の値段になっちゃうんですね。ムムム。

歌うクジラ…

ポゼッションとは

ただいまロンドンオリンピックが絶賛開催中でありまして、サッカー日本代表が男女ともに快進撃を続けています。今朝未明に女子代表がフランスに勝って決勝に進出しました。
しかし女子代表については、このオリンピック代表とほぼ同じメンバーがワールドカップで優勝しているわけですし、その後も親善試合などでは王者らしく王者としての試合をしてきており、世界の女子サッカーが日本女子のサッカーをお手本としスタンダードにしようという動きも出てきているくらいなのですから、もうそろそろ、まだ番狂わせの感もあったワールドカップの頃に念仏のように唱えられていた「最期まであきらめない力」や「フェアプレイ」などの、泥臭く格下が上を狙いに行くようなフレーズを多用するのはヤメにしてはどうかと思います。もちろんそれらの大切さは十分に理解したうえでの話です。そしてそういう認識があれば、予選最終戦での引き分け狙いの試合運びを問題視する動きは出てこないはずなのです。

そんなことを考えながら試合中継をテレビ観戦しているわけですが、解説の人やアナウンサーが発する言葉で、上で書いたことよりも引っかかることばが「ポゼッション」です。ポゼッションとは「支配率」のことで、サッカーでは「ボール支配率」のことをいい、全体の時間のうち、そのチームの選手がボールを保持していた時間の割合を示します。試合の途中や最後にポゼッションの数値を紹介しつつ試合分析をするのがお決まりになりつつあります。
しかしこのポゼッションという言葉がまだまだ聞きなれない言葉であることから、アナウンサーなどが「ポゼッション(ボール支配率)」(アナウンサーは、かっこは発音せずに一呼吸おくだけですが)(←ややこしくなってる)などと並列して言ってみたり、ていねいな人は「ポゼッション、えーこれは各チームのボール支配率のことを示しますがー」などと言ったりします。アナウンサーの人は短い時間の中でたくさんの情報を伝える必要があるわけですから、ポゼッションなんてややこしい言葉を使って、さらにその言葉の解説までしながらしゃべらなくても、はじめからボール支配率と言えばいいと思うのです。
さらに解説の人の中には「ポゼッション率」などと言う人もいます。これは「ボール支配率率」と言っていることになって完全におかしいですね。だーかーらー、もーボール支配率でいーですっって。

「ポゼッション…

オンナってヤツは

考えてみたら、わが家に「オンナ」を持ち込んだのは、今年幼稚園の年長になった末娘だったのかもしれません。今年高1になった娘からは、あんまり「オンナ」を感じることはありませんでした。家内からもそういうことはありませんでした。きっとふたりとも女性としてはオンナの要素が少なめだったのかもしれません。それがここ数年のうちに、我が家が「オンナ」で溢れかえるようになりました。
きっかけはきっと、家内が末娘に対して「この娘、3歳児にしてもうすでにオンナなのよ。」と言ったことだったかもしれません。僕はそのときすでに女性の中にあるオンナの部分に気づき始めていたので、その言葉の意味がおぼろげながらにわかりました。(もしかするとこれを読んでいる男性の中には「オンナってなんだ?」って思っている方がいらっしゃるのかもしれませんね)そして僕はその言葉をきっかけに、我が家にオンナがいることを意識し始め、意識したことによって、家内や上の娘の中にあったオンナの部分に気づき始めたのだと思います。

僕はつい何年か前まで、女性は清らかで純心で、か弱くて美しい存在だと思っていました。ウソみたいだけどホントの話です。結婚の準備で、披露宴のに司会をしてくれる女性と打ち合わせをしたとき、彼女(いまの家内のこと)をどんな人だと思ってますか?と聞かれて、「天使のような人だと思います」と真面目に答えたら(ホントにそう思っていた)、あからさまにドン引きされて意味がわからなかったのですが、今となってはなんだか小っ恥ずかしいです。
そんな話を飲み屋のお姉さんに話したら「しあわせな人だね。」と言われました。別なひとに「しあわせな人だって言われたけど、そうなの?」と聞いたら、「そうなんじゃない。だってそれ、男は知らなくていいことだから。」と言われました。

これを書くきっかけになったのは、松山ケンイチと菊地凛子で映画化された「ノルウェイの森」を観たことでした。大学時代に大流行りしたしたので僕も小説を読みましたが、あんまり好きではありませんでした。村上さんの小説は、そのあとに読んだ「羊をめぐる冒険」とか「世界の終りとハードボイルドワンダーランド」などでどっぷりハマって、エッセイを含めた全著作を読むことになり、「ノルウェイの森」はただの入り口だったという印象だったのですが、あの映画を見て、二十歳前後に読んだあの小説が、僕の女性観を強固…

マツコ・デラックスのミリョクのヒミツ

最近、マツコ・デラックスの出演する番組にハズレはないと思っている。
ただ世間的に見て、僕がマツコのことを知ったのはかなり遅かったと思う。ネットなどでチラホラとマツコの評判を見かけるようになったとき、僕はまだマツコのことを知らなかったから。

最初に見たのは「有田とマツコと男と女」だったと思う。おもしろい番組だと思ったけど、おもしろいのはテーマごとに集められた素人たちと有田だと思っていた。
マツコのおもしろさに気づいたのは 「マツコ&有吉の怒り新党」だった。視聴者からの怒りメールにマツコと有吉がコメントしていく番組だが、ふたりの独特の切り口がおもしろい。話の広げ具合と落としどころをふたり探り合っていく感じもおもしろい。このふたりレベルの話術があれば、そのあたりは自由自在のようだ。しかし、有吉がふいに漏らしてしまった自分自身の弱さや暗さに対して「あなたのその心の闇はなんなのよー」と突っ込むマツコや、マツコ自身がひとりで寂しく死んで行くであろう自身の悲哀を吐露する場面など、お互いの傷を舐めあうような予定調和でない会話がこの番組の真骨頂だろう。
アシスタントの夏目三久もつかず離れず程良く会話に絡んでくる。後半の「日本三大〇〇」も、毎回独自の視点がおもしろい。マツコをキャスティングするスタッフのセンスがおもしろいのかもしれない。

この頃から深夜のテレビ欄にマツコの名前を見つけると録画するようになった。そこで見つけたのが「マツコの知らない世界」だった。毎回マニアな分野の専門家をゲストに呼んで、マツコにレクチャーする番組で、ここでマツコの博識さを知ることになる。ジオラマを取り上げた1時間SPでは、鉄道や都市計画についてかなり造詣が深いことを知らされた。このとき、興味を抱く対象や教養の種類と発言内容にタモリとおんなじ匂いがすることに気づいた。駅そばの回では深くて豊富な知識量と冴えた推理力で、専門家からのプチクイズに次々と正解して驚かされる。このあたりもブラタモリでのタモリと似ているかもしれない。

もうすでに番組は終わってしまったが、これと同じ頃に見つけた「アウト×デラックス」も良かった。ナイナイの矢部と世間的には完全にアウトな人たちをゲストに呼んで会話する。ただこれについては、マツコのおもしろさよりも企画のおもしろさのほうが強かったかもしれない。この番組への出演をきっかけにプチブレ…

「使いみちのない風景」がもたらすもの

このまえ札幌へ出張するときに、電車の中で読む本として本棚にあった村上春樹さんの「使いみちのない風景」を持っていきました。むかし一度読んだはずの本ですが、とても新鮮な文章と写真として楽しむことができました。頭の片隅にこびりついたように離れないけれど、そこから発展してなにかが始まるわけではない鮮烈な印象の景色というのがあって、村上さんはそれを「使いみちのない風景」と呼んでいるそうです。アントニオ・カルロス・ジョビンの「Useless Landscape」という曲の邦題が気に入って、そう呼んでいるのだそうです。

そんな文章を読みながら思い出したのが、糸井重里さんのことば「思い出したら、思い出になった。」でした。ことばというよりも本のタイトルですが。この本は「ほぼ日」で連載している「今日のダーリン」と「ダーリンコラム」から抜粋された文章と、同じく連載している「気まぐれカメら」の写真をまとめたものです。この本の内容はどうあれ、僕にはこの本のタイトルがずっと頭にこびりついて離れないのです。思い出ってたしかにそういうものだなぁと、ポトリと目からウロコを落としながら気づいたのです。これに気づいてからというもの、なにかイベントのあとにチラホラ耳にする「いい思い出作りになりましたねー」みたいなコメントには違和感を覚えざるを得ないからだになってしまいました。

そんなことを考えながら、さらに思い出したのが、ヴィム・ヴェンダース監督の「都会のアリス」に登場した、ホテルの部屋の電気スタンドの写真を撮る男のことでした。いっしょにいた少女アリスに、どうしてそんなものの写真を撮るのか聞かれると、記憶に残ることのないこういうものこそ写真として残しておくべきものなんだ、みたいに答えていました。わかったようなわからないような話だけれど。

最近タンブラーのダッシュボードに流れてきたことばで、こんなのがありました。
 「冴えない時間を一緒に過ごしたやつが友だちだと思う。
このことばがみんなからたくさんの共感を得ていることからもわかるように、どういうわけか人は、冴えない時間のことをあとからよく思い出すのです。そしてその時間をいっしょに過ごしてくれたひとは、その人にとってとても大切な存在になるのです。そんな、出来事といえるような出来事がひとつも起こらなかったような、取るに足りない時間のことが、どういうわけかあ…

なにげない日常も小さな無数の決断の積み重ねでできているんだゼ

あさ目が覚めると、そこで起きるのか、それとももう少しだけ眠るのかの決断をすることになる。起きたら、寝室から出るときにドアノブをどちらの手で握るのか、そんな無意識に行われる小さな決断もある。
午前中はダラダラとなにもせずに過ごしたとしても、なにもせずに過ごすという決断をしたということになる。
道を歩いていて、前から見知らぬ人が歩いてきたとき、ニコリと笑って会釈をしながら挨拶をかわすのか、知らん顔して通り過ぎるのか、これも決断だ。

こんなふうに僕らの日常は、大きなものから小さなものまで、たくさんの無数の決断によって成りたっている。そんな無数の決断のひとつひとつをより良いものにしていくことができたなら、僕らの日常が、僕らの人生が、とても簡単により良いものになっていくような気がする。

「日々私たちが過ごしている日常は、実は奇跡の連続なのかもしれない。」

<a href="http://www.nicovideo.jp/watch/sm15683727">【ニコニコ動画】日々私たちが過ごしている日常は、実は奇跡の連続なのかもしれない。</a>

雪原を歩く

自宅の仕事場でのデスクワークの息抜きのために、よく近所を散歩することがあります。夏のあいだは自転車で川沿いの道を走ったり、山道を登っていったりしました。冬になって雪が積もって、自転車で出かけることができなくなってしまったので、最近は自宅そばの河畔の林の中をあることが多くなってきました。タイトルには「雪原」と書きましたが、その言葉からイメージされるほど広大な大地を悠々と歩く感じのものではなくて、まばらな木の間を縫ってちょろちょろと歩くような感じです。タイトルなのでちょっと釣り気味にしてみました。

そこはこの近所のたくさんの人たちの散歩コースになっていて、人がひとり通れるだけの細い道が踏み固められてできています。そこからはずれると、足が雪の中にくるぶしよりも上まで埋まってしまうことになります。正面から誰かが歩いてきたら、どちらかが気をきかせて道をゆずらなければなりません。そういうところで自然と見知らぬ人たちとコミュニケーションを取ることになります。冬が深まってくると、徐々に川に氷が張って雪が積もり、最終的には向こう岸と雪原がつながってしまいます。そこに夜のうちに動物が向こう岸とのあいだを行き来した足跡がついていたりして、そんな様子を見ながら歩くのが楽しいです。

いつものように歩いているとき、ふと、この「道」を人生にたとえてみるとおもしろいなぁと思いつきました。
一日中雪が降り続いたりすると、みんなで踏み固めた「道」はすぐに消えてしまうのですが、そのあと一番最初にここを歩いて「道」をつくった人は大変だったろうなぁとか、それを考えると、すでに踏み固められた「道」を歩くのはにとても楽だなぁとか、たまに「道」から外れた足あとを見つけると、これは子供かな? 散歩につれてきてもらった犬かな? などと思いを巡らせます。そして、子供のころは「道」から外れるリスクなんて考えもしなかったなぁなんて考えたりします。そして、「道」とはまったく関係なく林の奥のほうからきて、「道」を横切って川の方へ降りていく野生動物の足跡を見て、ちょっと清々しい思いを胸に抱いたりします。

こんなことを考えながら歩く雪の上の散歩は、けっこう楽しくてやめられません。

自然保護について考えるときに僕が考えること

最近、自然保護についてかなり真剣に考えさせられることがありました。普段から自然については関心を持っているつもりでしたが、これを機に突き詰めて考えてみた結果、これまでモヤモヤしていたものの輪郭がくっきりしてきて、ある部分についてはこれまで漠然と抱いていた意見とは別の意見に落ち着くことになったので、ここにまとめておきたいと思います。

まず第一に、人間が経済活動を行う以上、その過程において、多かれ少なかれ確実に自然を破壊してしまうのだという、誰がなんと言おうと決して揺らぐことのない事実に気づきました。そして世界の現状をみるかぎり、 人間が経済活動を行うことをやめることはできないであろうという事実も認めざるを得ません。

そして第二に、東北の震災でも現実を突きつけられたように、自然の力は人間の力とは比べようもないほどに強大であるということに気づきました。人間が自然に対して手を加えられるのはほんのわずかで、人間にとっては災害と呼ばれる自然の大きな力によって、人間が自然に加えた変化は一瞬にしてもと通りにされてしまいます。人間がいくら自然を破壊しようとも、自然にとってはたいしたことないように思えます。
ここで気づくのは、前の段落で気づいた「人間はどうしても自然を破壊してしまう」という事実はスッカリ帳消しになってしまうということです。

また、自然にとっての時間は人間にとっての時間と比べて、とてつもなく大きく緩やかだということに気づきます。地球の誕生からこれまでを一年に例えると、人間の祖先であるホモ・サピエンスが地球上に現れたのは、大みそかの夜11時37分になるそうです。
自然、あるいは地球にとって、時間という概念でみても人間はこんなにちっぽけな存在なのです。たとえ人間が熱帯雨林を伐採して野原にしてしまっても、100年後もしくは200年後には自然の力によってすっかりもと通り熱帯雨林になっているかもしれません。200年というと人間にとってはとてつもなく長い時間ですが、自然にとっては取るに足りない時間です。熱帯雨林は、人間がどうこうしても、しなくても、熱帯雨林に戻ったり、あるいは自然と砂漠になっていくのかもしれません。その大きな力に人間はとうてい太刀打ちすることはできないのです。

以上のことを考えると、人間が自然を保護しようとすることは、まったくもって自然に対しておこがましい行為だと言…

かろやかに生きる

いつのころからか、かろやかに生きたい、と思うようになった。

学生のころ、あれはあれでなかなか軽やかだったかもしれない。学生が学生である以上、ある程度の限界があるけれど。高校生のころ、3日間の期末試験期間の2日目の試験の帰りに、友達と夕方まで麻雀したり(僕なりの精一杯のかろやかさ)、大学4年目の年には1年間休学をして、半年間バイトしてお金を貯め、残りの半年をワーキングホリデービザでカナダ・アメリカを旅して回ったりもした。
その行動を実行に移す大きな要因は、このまますんなりと社会へ出てしまうと、この先の人生が他人の敷いたレールの上に乗っかっていってしまうような危機感を覚えたことだった。

大学を卒業し、大阪の建築設計事務所で10年間働いた。あのころの僕が、これまでの人生の中で一番かろやかじゃなかったのかもしれない。自分の就きたかった職業につき、自分自身を律して、日々鍛錬しているつもりだった。最初のころはそれでよかったけれど、勤めていた10年のうちの最後の3年くらいは、自分の行く先が見えなくなってきて、仕事は自分を縛るものでしかなくなっていた。

僕は決断をして、家族といっしょに北海道へと移り住んだ。最初の半年間は退職金と失業保険で暮らした。いろいろと考えたけれど、結局僕にできるのはこれだけだと、小さな建築設計事務所に務めた。収入はだいぶ減ったけれど、北海道での生活はとてものびやかで、かろやかだった。小1と1歳だった子供たちもすくすくと育った。

そして北海道へ来て9年目の昨年、勤め人をやめて独立した。ひとりでやっていくだけのスキルは身についたと思ったから。ひとりで仕事を始めてみて「かろやかさ」とはこういうだと気づいた。
毎朝かならず行けなければならない場所はない。その日、自分がやるべきことは、その日、自分で決める。根を詰めて作業をしたら、息抜きは好きなタイミングで好きなだけできる。

大学4年の時、レールに乗ってしまうのが怖くて、帰りのチケットを持たずにカナダへ渡り、持っていったお金を全部使ってしまったあと、現地で働いて稼いだお金で買ったチケットで半年後に日本へ帰ってくるときに「あーオレ、どこででも、どんなふうにでも生きて行けるかもなぁ」と思ってしまった。

それがいま、かなり実現しつつあると感じる。僕にはいま、家族や財産など、守るべきものがたくさんある。 それらからもいずれ…

「当たり前」じゃない「当たり前」

この前、「当たり前」が増えすぎると世の中が悪くなるんじゃないか、ということを書きましたが、この前書いたのちょっと違う「当たり前」の良くないところに気づきましたので書いてみたいと思います。

きょう子どもが宿題をやっていて、わからないところがあるので教えて欲しいと言われて教えていたのですが、子どもが何をわからないのかがわからなくて困りました。僕にとってはそういうことってこれまでにもよくあったし、みなさんもよく経験されていると思うのですが、 きょう僕は、はたと気づいてしまいました。それはこの前「当たり前」について考えたからかもしれません。そう、それはつまり、僕にとっての「当たり前」が障害になっていたのではないかと気づいたということです。

要するに僕が当たり前だと思っていることも、子どもにとってはちっとも当たり前ではなくて、それで「なにがわからないのかわからない」ということが起こるのです。そしてこれはきっと、相手が子供でなくても起こることです。僕の当たり前と相手の当たり前は、違って当たり前なのです。

ひとになにかを教えたりするとき、このことを肝に銘じておくとうまくいくことがありそうです。 それにこの「当たり前」を「常識」に置き換えたりすると、さらに深いことになりそうです。「当たり前」や「常識」をちゃんと疑うことができると、いろんな可能性が一気に広がりますね。