なにげない日常も小さな無数の決断の積み重ねでできているんだゼ

あさ目が覚めると、そこで起きるのか、それとももう少しだけ眠るのかの決断をすることになる。起きたら、寝室から出るときにドアノブをどちらの手で握るのか、そんな無意識に行われる小さな決断もある。
午前中はダラダラとなにもせずに過ごしたとしても、なにもせずに過ごすという決断をしたということになる。
道を歩いていて、前から見知らぬ人が歩いてきたとき、ニコリと笑って会釈をしながら挨拶をかわすのか、知らん顔して通り過ぎるのか、これも決断だ。

こんなふうに僕らの日常は、大きなものから小さなものまで、たくさんの無数の決断によって成りたっている。そんな無数の決断のひとつひとつをより良いものにしていくことができたなら、僕らの日常が、僕らの人生が、とても簡単により良いものになっていくような気がする。

「日々私たちが過ごしている日常は、実は奇跡の連続なのかもしれない。」

Posted at 時刻: 3月 28, 2012 on 2012/03/28 | 0 コメント | Filed under:

雪原を歩く

自宅の仕事場でのデスクワークの息抜きのために、よく近所を散歩することがあります。夏のあいだは自転車で川沿いの道を走ったり、山道を登っていったりしました。冬になって雪が積もって、自転車で出かけることができなくなってしまったので、最近は自宅そばの河畔の林の中をあることが多くなってきました。タイトルには「雪原」と書きましたが、その言葉からイメージされるほど広大な大地を悠々と歩く感じのものではなくて、まばらな木の間を縫ってちょろちょろと歩くような感じです。タイトルなのでちょっと釣り気味にしてみました。

そこはこの近所のたくさんの人たちの散歩コースになっていて、人がひとり通れるだけの細い道が踏み固められてできています。そこからはずれると、足が雪の中にくるぶしよりも上まで埋まってしまうことになります。正面から誰かが歩いてきたら、どちらかが気をきかせて道をゆずらなければなりません。そういうところで自然と見知らぬ人たちとコミュニケーションを取ることになります。冬が深まってくると、徐々に川に氷が張って雪が積もり、最終的には向こう岸と雪原がつながってしまいます。そこに夜のうちに動物が向こう岸とのあいだを行き来した足跡がついていたりして、そんな様子を見ながら歩くのが楽しいです。

いつものように歩いているとき、ふと、この「道」を人生にたとえてみるとおもしろいなぁと思いつきました。
一日中雪が降り続いたりすると、みんなで踏み固めた「道」はすぐに消えてしまうのですが、そのあと一番最初にここを歩いて「道」をつくった人は大変だったろうなぁとか、それを考えると、すでに踏み固められた「道」を歩くのはにとても楽だなぁとか、たまに「道」から外れた足あとを見つけると、これは子供かな? 散歩につれてきてもらった犬かな? などと思いを巡らせます。そして、子供のころは「道」から外れるリスクなんて考えもしなかったなぁなんて考えたりします。そして、「道」とはまったく関係なく林の奥のほうからきて、「道」を横切って川の方へ降りていく野生動物の足跡を見て、ちょっと清々しい思いを胸に抱いたりします。

こんなことを考えながら歩く雪の上の散歩は、けっこう楽しくてやめられません。

Posted at 時刻: 3月 23, 2012 on 2012/03/23 | 0 コメント | Filed under: ,

自然保護について考えるときに僕が考えること

最近、自然保護についてかなり真剣に考えさせられることがありました。普段から自然については関心を持っているつもりでしたが、これを機に突き詰めて考えてみた結果、これまでモヤモヤしていたものの輪郭がくっきりしてきて、ある部分についてはこれまで漠然と抱いていた意見とは別の意見に落ち着くことになったので、ここにまとめておきたいと思います。

まず第一に、人間が経済活動を行う以上、その過程において、多かれ少なかれ確実に自然を破壊してしまうのだという、誰がなんと言おうと決して揺らぐことのない事実に気づきました。そして世界の現状をみるかぎり、 人間が経済活動を行うことをやめることはできないであろうという事実も認めざるを得ません。

そして第二に、東北の震災でも現実を突きつけられたように、自然の力は人間の力とは比べようもないほどに強大であるということに気づきました。人間が自然に対して手を加えられるのはほんのわずかで、人間にとっては災害と呼ばれる自然の大きな力によって、人間が自然に加えた変化は一瞬にしてもと通りにされてしまいます。人間がいくら自然を破壊しようとも、自然にとってはたいしたことないように思えます。
ここで気づくのは、前の段落で気づいた「人間はどうしても自然を破壊してしまう」という事実はスッカリ帳消しになってしまうということです。

また、自然にとっての時間は人間にとっての時間と比べて、とてつもなく大きく緩やかだということに気づきます。地球の誕生からこれまでを一年に例えると、人間の祖先であるホモ・サピエンスが地球上に現れたのは、大みそかの夜11時37分になるそうです。
自然、あるいは地球にとって、時間という概念でみても人間はこんなにちっぽけな存在なのです。たとえ人間が熱帯雨林を伐採して野原にしてしまっても、100年後もしくは200年後には自然の力によってすっかりもと通り熱帯雨林になっているかもしれません。200年というと人間にとってはとてつもなく長い時間ですが、自然にとっては取るに足りない時間です。熱帯雨林は、人間がどうこうしても、しなくても、熱帯雨林に戻ったり、あるいは自然と砂漠になっていくのかもしれません。その大きな力に人間はとうてい太刀打ちすることはできないのです。

以上のことを考えると、人間が自然を保護しようとすることは、まったくもって自然に対しておこがましい行為だと言えます。地球のために自然保護活動をしてあげている、などと考えるのはまったくの間違いだと言えます。子孫のためによりよい自然環境を残すために活動する、というのも、ちょっとズレて見えてきます。
ただし、自然保護活動を否定するわけではありません。できるだけ今ある自然を汚さないようにつつましく生きることは素晴らしいことだと思います。しかし、地球のため子孫のためだからといって、自然保護活動を他人に押し付けるのは間違いだと思います。あくまでもそれは今その場所にいるそのひと自身のための活動だと思うのです。

というわけで、自然保護について掘り下げて考えていったところ、自分でも思いもよらなかったところに着地してしまい驚いてしまったというお話でした。

Posted at 時刻: 3月 22, 2012 on 2012/03/22 | 0 コメント | Filed under: , ,

かろやかに生きる

いつのころからか、かろやかに生きたい、と思うようになった。

学生のころ、あれはあれでなかなか軽やかだったかもしれない。学生が学生である以上、ある程度の限界があるけれど。高校生のころ、3日間の期末試験期間の2日目の試験の帰りに、友達と夕方まで麻雀したり(僕なりの精一杯のかろやかさ)、大学4年目の年には1年間休学をして、半年間バイトしてお金を貯め、残りの半年をワーキングホリデービザでカナダ・アメリカを旅して回ったりもした。
その行動を実行に移す大きな要因は、このまますんなりと社会へ出てしまうと、この先の人生が他人の敷いたレールの上に乗っかっていってしまうような危機感を覚えたことだった。

大学を卒業し、大阪の建築設計事務所で10年間働いた。あのころの僕が、これまでの人生の中で一番かろやかじゃなかったのかもしれない。自分の就きたかった職業につき、自分自身を律して、日々鍛錬しているつもりだった。最初のころはそれでよかったけれど、勤めていた10年のうちの最後の3年くらいは、自分の行く先が見えなくなってきて、仕事は自分を縛るものでしかなくなっていた。

僕は決断をして、家族といっしょに北海道へと移り住んだ。最初の半年間は退職金と失業保険で暮らした。いろいろと考えたけれど、結局僕にできるのはこれだけだと、小さな建築設計事務所に務めた。収入はだいぶ減ったけれど、北海道での生活はとてものびやかで、かろやかだった。小1と1歳だった子供たちもすくすくと育った。

そして北海道へ来て9年目の昨年、勤め人をやめて独立した。ひとりでやっていくだけのスキルは身についたと思ったから。ひとりで仕事を始めてみて「かろやかさ」とはこういうだと気づいた。
毎朝かならず行けなければならない場所はない。その日、自分がやるべきことは、その日、自分で決める。根を詰めて作業をしたら、息抜きは好きなタイミングで好きなだけできる。

大学4年の時、レールに乗ってしまうのが怖くて、帰りのチケットを持たずにカナダへ渡り、持っていったお金を全部使ってしまったあと、現地で働いて稼いだお金で買ったチケットで半年後に日本へ帰ってくるときに「あーオレ、どこででも、どんなふうにでも生きて行けるかもなぁ」と思ってしまった。

それがいま、かなり実現しつつあると感じる。僕にはいま、家族や財産など、守るべきものがたくさんある。 それらからもいずれ徐々に解放されていくような気がする。
将来は、あたたかい海辺の町で、波乗りをしながら暮らしていたい。それはタイあたりかもしれない。

Posted at 時刻: 3月 20, 2012 on 2012/03/20 | 0 コメント | Filed under: