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館内放送に芽生える自我とは

最近、特に用事がなければ、毎週土曜日の午後はプールへ行って泳ぐようになりました。まずサウナに入って、長いときは出たり入ったりしながら30分くらい入って、そのあと30分泳いで、そのあとまたサウナに入って帰ってきます。そんな僕のサウナライフ(←プールと違うんか)の中で最近気づいたことがあります。
そのプールでは毎時間10分間、すべての人をプールから出して休憩時間を取るのですが、その休憩時間の最初と最後に館内放送が入ります。「みなさまの事故防止と休憩のため、10分間の休憩時間を取ります。プールから上がってください。」という感じです。そのあとプールでの注意事項をいくつか読み上げます。その内容は毎回まったく同じなのですが、それを読む人の違いによって聞く側が受ける印象がまったく違うことに気が付きました。

ほとんどの場合、声の印象から想像するに40〜50代くらいの女性が読むのですが、その人はものすごくハキハキとキッパリサッパリと読みます。ちょっと早口で。そのちょっと度を過ぎたキッパリさ加減は、聞く側が思わず萎縮してしまうほどです。
その人とは別の、やはり40〜50代くらいの女性が読む場合もあるのですが、その人はちょっとネットリした感じで、語尾などにほんのりと「媚(こび)」のようなものがあって、可愛らしい印象で、これ読んでる時きっと口角が上がってるだろうなぁと感じます。
頻度はグッと下がるのですが、20代くらいの若い女性が読む場合もあります。彼女はまるで学芸会の劇のセリフのような、国語の授業中に教科書を朗読してるみたいな、まったくの無感情でフラットな印象です。誰かに心を抜かれてしまったかのようです。
さらに頻度が落ちるのですが、男性が読むこともあります。若い男性の場合もあれば、おじさんの場合もあるのですが、どちらの場合も、先ほどの20代くらいの若い女性ほどではありませんが、適度に感情が抑えられていてフラットな印象です。したがって男性が読んだ場合、その文章の意味以外にその放送から伝わってくるのは、その人の年齢はだいたいこれくらいかなぁという情報くらいです。

以上のことから僕が気づいたのは、まず、男性がこういう放送をする場合、誰が読んでもだいたいフラットな印象になるということ。そして女性が読んだ場合は、年齢によって大きく違うということ。結婚前くらいの若い女性の場合、必要以上に感情を消…

許す力

ずっと前にテレビでみた日本に住む外国人たちが日本での生活のことなどについて話す番組で、中国人と韓国人が日本の戦後賠償や歴史認識などについて怒りながら話し始めました。ひどいことをした日本のことが許せないというわけです。それを聞いていたある黒人男性が、我々黒人はつい100年ほど前まで白人社会で奴隷として扱われていて、解放運動をしているあいだはそりゃ色々あったけど、奴隷解放以降は白人たちとけっこう仲良くやってるし、奴隷として扱われていたころの賠償をしつこく求めたことなんて一度もない。あなた達はいったいいつになったら日本のことを許すんですか?と言いました。すると激しくまくしたてていた中国人も韓国人も、シュンとおとなしくなってしまいました。

ずっと前に品格について書いたことがありました。その時は「寛容さ」と書きましたが、それはつまり「許す力」です。「許容力」と言い換えることもできるかもしれません。あるいは「罪を憎んでひとを憎まず」という言葉もありますね。そういう力の大きさが、その人間の品格をつくりだすのだと思います。

僕は小学生のころ、母親に「あなたはホントに簡単に人を許すけど、それってなかなかできることじゃないんだよ。スゴいことなんだよ。お母さんにはちょっと真似できない。あなたのそういうところ、スゴく偉いと思うよ。」と褒められたことがありました。そんなふうに手放しで褒められることってあんまりなかったので、とても良く覚えています。でもその時はそんなふうに褒められても意味がよくわかりませんでした。

ずいぶんたって大人になってからようやくその意味がおぼろげにわかるようになってきました。ただ、意識してそうしているわけではなく、自然にやっていることなのでいまいちわかっていなかったと思います。でもこの歳にもなるとさずがにどうしても許せないひとのひとりやふたりはできました。そういうひとが出現したときに初めて「許す力」の存在を本当に認識できたのです。

この先いつか、そんなどうしても許せなかった人のことを許すことができる時がくるかもしれません。そのとき僕は次のステップへ進めるような気がしています。

反発しあう磁石のようなもの

中1の春に初めてクラスメイトの女の子からつきあって欲しいと言われた。でも「つきあう」ということの意味がよくわからなかった。つきあったらどんなことをするのかがわからなかったし、つきあうとそのあとしばらくして必ず「別れ」があるような気がして、そんなことだったら「つきあう」なんてことせずに、今のまま仲の良い友達のままいればいいんじゃないかと思った。
それでもやっぱりどうしてもと押し切られてつきあうことになり、交換日記を始めることになった。その女の子の書く字の綺麗さと文章の巧みさに比べて、自分の字があまりに汚く、文章も稚拙すぎて打ちのめされながらしばらく日記を交換したけれど、1ヶ月くらいで終わってしまった。「別れ」がやってきたのだ。
僕の方から距離をおいたのだ。その女の子はいつも粗野な振る舞いをすることが多く、ちょっと不良っぽかった。でも日記の字や文章が表しているように、中身はとてもきちんとしていてかわいらしい女の子だった。そのギャップが意外だった。つきあう前にクラスで隣の席になって話をして仲良くなったときにも同じことを感じていた。
ある時、その女の子が学校で大きなケンカをした。相手は男子生徒たちの中でも一目置かれている野球部員のひとりだった。僕はそのときその騒ぎを遠くから眺めていて、誰が騒ぎを起こしているのか知らなかった。そのあと教室でその女の子が荒い息をしながら何人かの女の子たちになだめられているのを見て、その騒ぎを起こしていたのがその女の子だったことを知った。僕がその女の子と距離をおくことに決めたのはそれが理由だった。
その女の子が絶対に超えてはいけない一線を超えてしまったような気がしたのだ。いま思えばそのケンカがどんな理由で起こったのか知りもせずに(いまだに知らない)そういう決断をしたのは良くなかったような気もするけれど、中1の僕には精いっぱいの決断だった。
そのあとその女の子は誰にも手の付けられない不良へと変わっていった。僕はそのきっかけをつくってしまったような気がして、それにその女の子のギャップの裏側をよく知ってもいたので、いまだに申し訳ない気持ちを抱き続けている。

最近、男女に限らず人と人は反発しあう磁石のようなものだと思うようになった。反発するかしないかの程よい距離を置いていればずっとそばにいつづけられるのに、近づきすぎると強く反発して遠くへ離れてしまう。

ケータイを持ち歩くようになって3年目になる

3年前に自分で設計事務所を始めようと思い立ち、まず最初にしたのがケータイの契約だった。それまでは特に不便を感じなかったので持っていなかったのだけれど、独立して仕事をするとなると、やっぱりちょっとないと困るかなぁということで持ち始めることにした。ただ、持って2週間くらいしたころに飲みに行って忘れて帰ってきて、自分の電話に電話してその場所へ取りに行ったことがあった。まだ自分がケータイを持っていることに慣れていなかったのだろう。いまでは外出するときにも忘れずに持ち歩くようになったし、どこかへ置き忘れて帰ってくることもなくなった。

でもまだ僕のケータイにはあんまり電話がかかってくることもないし、自分からケータイで電話をかけることも少ない。仕事中に電話をかけるときは固定電話を使うし、第一、仕事の連絡のほとんどはメールでしている。
だからいまだに自分のケータイに連絡が入ることには慣れない。最初のころは外出時に自分のケータイが鳴っていることに気づくことがほとんどなかった。だいたいあとで着信履歴を見て気づいて、こちらからかけ直していた。それではさすがに困るので着信音を大きくしたり、バイブに気付きやすいようにできるだけ肌に近いポケットに入れて持つようにした。それでもまだ半分くらいの着信に気づかないし、気づいたときにはものすごく慌ててしまう。あまりに慌てすぎて着信音が鳴っているあいだに出られなくて切れてしまうことも多い。

だいたいポケットの中で突然大きな音で鳴ってブルブルと震え始めるものを持ち歩くことに慣れるとは思えない。よく世の中の人達はあんなものを持ち歩いているなぁと感心してしまうくらいだ。

ケータイのメールが苦手だ。よくあれで長いメールが打てるものだと思う。もう半分くらいのひとがスマホらしいが、僕としてはあれでも長いメールはきついと思う。
絵文字が苦手だ。なんだか恥ずかしくてほとんど使ったことがない。まれに気心の知れたひとにメールするときに、文章の内容とまったく関係のない「ひよこ」や「モアイ」や「くるま」などの絵文字を強引につっ込んでみたりするくらいだ。
迷惑メールが多すぎて、ほとんどの人がPCからのメールを拒否する設定にしているのが厄介だ。そういう僕もそうなんだけれど。ケータイのメールアドレスから送っているように装ってPCからメールを送るというのを試したみたがダメだった。ある…

そげキングが好きだ。

小6の息子の影響で3年ほど前からマンガ「ワンピース」を読み始めたのですが、みごとにハマってしまいました。作者の尾田栄一郎さんはジャンプ編集部にこの作品を持ち込んだ時に第1回と最終回のふたつを編集者に見せて連載を決めたという逸話があるそうですが、そんな信じがたいような逸話も、もしかするとそうかもしれないなぁと思わされるほど作品全体に緻密に計算された様々な伏線が張り巡らされていて、コミックスでいうと20巻分くらいの時間を挟んだ過去のひとコマに伏線が隠されていることなどがザラにあったりします。

そんなワンピースの中で僕がいまのところ一番好きな部分は、麦わらの一味がウォーター・セブンについてからエニエス・ロビーでの死闘を繰り広げたのちに、ニコ・ロビンをほんとうの意味で一味の仲間とし、さらにフランキーを船大工として仲間に加えるまでの一連の流れです。
そのあいだに一味が乗ってきた海賊船ゴーイングメリー号の破損が大きいために修復が不可能だという判断で船を乗り換える決断がくだされ、その決断に納得できなかったウソップが一味を離れます。しかし一味から離れきれなかったウソップは仮面をかぶり「そげキング」と名乗って一味を追いかけます。まぁ仮面から長っ鼻がはみ出しまくっているのでルフィーとチョッパー以外にはバレバレで「そげっプ」などと呼ばれたりしてます。
しかしエニエス・ロビーの戦いでは、このそげキングの大活躍によって一味は勝利をおさめることができ、その活躍がもとでウソップはそげキングの姿で海軍からの懸賞金を掛けられることになります。

そげキング、そしてウソップの魅力はやはりそのヘボキャラにあるわけですが、魚人島での戦いの前の2年間の修行を経てウソップがやたらとたくましくなってしまい、ちょっとした頼りがいなども生じ始めているので困っています。やはりウソップには常に全力のおよび腰で敵に立ち向かってもらいたいし、そしていつの日かまたあのそげキングのお面をかぶって活躍してもらいたいものです。

「そげきの島はどこにあるのかって? それはね、君たちの心の中さ。」



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ある正義と、それとはまた別の正義とが戦うのが戦争なんだよ、という話

そう、例の、戦争ってのは正義と悪とが戦ってるんじゃなくてね、という話。

これはつまり、あまりにも正義を突き詰めすぎると、あるひとつの視点において悪を排除して正しいものだけを残すってことをやり過ぎると、ある段階でクルッとひっくり返って巨大な悪になってしまうことがあるってことです。こうやってできあがった巨大な正義(悪)は、別の視点によってできあがった巨大な正義(悪)と抜き差しならないほどに対立してしまうのです。宗教戦争なんかがこれの最たるものですね。

ここで考えたのですが、現代の日本って社会全体が正しいものだけで埋め尽くされようとしていて、もしかするととても危険な状態なんじゃないでしょうか? 完全な悪は全力で排除したらいいと思うのですが、そのだいぶ手前の、ちょっといかがわしいものなんかが、正義の人たちの手によってドンドン排除されていっているような気がするのです。

個人においても正しくあろうとし過ぎると、どこかで破綻してしまうものなのでしょう。社会や組織を構成する個人が、自分の中にもある程度の悪が存在しているということを理解して、その社会や組織の中にもある程度の悪が存在することを大きな度量をもって許容しているのが、健全な状態なんじゃないだろうか、という気がしています。

清濁併せ呑む」という言葉があります。
善人も悪人も、善も悪もわけへだてせず、来るものはすべてあるがままに受け入れる。広く大きい度量があることのたとえ。 とあります。

度量不足ってことですね。

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村上春樹的罪悪感の推移

いま世間では村上春樹さんの最新長編小説「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」が話題ですが、僕は最近(といっても、もう2〜3ヶ月前ですが)村上さんの昔の作品を読みました。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と「羊をめぐる冒険」です。どちらも僕が大学生の頃にはじめて読んだもので、「世界の終わり〜」については僕がこれまでに読んだ村上さんの作品の中で最高傑作だと思っていて、何度も何度も読み返している大好きな作品です。
どちらの作品もその作品世界にグイグイと引き込まれていって、長い長い小説なのにあっという間に読みきってしまった印象です。どちらも古い小説なのに、みずみずしく色褪せないおもしろさがあって、良い小説っていうのはこういうものなんだなぁと思いました。

しかしそれとは逆に、どちらにも時代の移り変わりによるギャップを感じさせる部分があり、それがまたとても新鮮に感じられました。
まずこれはどちらの作品にもいえることなのですが、主人公がやたらと煙草を吸うということです。「羊をめぐる冒険」では主人公はもちろん、主人公が追いかける「鼠」も、追いかける途中であらわれる「羊男」も煙草を吸い、彼らが道端などに捨てた吸殻が追跡の手がかりになっていきます。
僕がこの小説をはじめて読んだ20年くらい前には、世の中の成人男性の半分くらいは煙草を吸っていたし、道端にはたくさんの煙草の吸殻が落ちていました。それがとても自然で当たり前のことだったのに、いまでは煙草を吸うひとは極少数になってしまい、道端から吸殻はなくなりました。この変化もとても自然に当たり前のように移り変わってきたのでとても自然に受け入れていたのですが、この古い小説を読んで大きな変化に気付かされ、とても驚かされました。

そしてもうひとつ、これは「世界の終り〜」の主人公なのですが、小説の後半で彼は、いろいろと理不尽なことが続けざまに起こってちょっとヤケクソ気味になっていたとはいえ、お酒を飲んだ状態で車の運転をするのです。とても理性的な、社会に迷惑を掛けることなく目立たずひっそりと生活することを望む彼が、「えぇいもうヤケクソだ、酔っ払ってるけどしょうがないや運転しちゃえ」的な心理描写はなにもなく、とても自然なことのように飲酒運転していることに驚かされました。
僕がはじめてこの小説読んだ頃、僕は日常的に車を運転する状況ではな…

おさるのジョージ的な存在を受け入れるということ

我が家では家族中が大好きなんです「おさるのジョージ」。

たぶんアメリカのニューヨークあたりに住んでいる「黄色い帽子のおじさん」と、そのペットで好奇心旺盛な「おさるのジョージ」が繰り広げるお話です。このジョージがかなり賢くて、言葉はしゃべれないものの何でもほとんど人間並みにこなします。いいたいことも身振り手振りでちゃんと伝えます。おじさんに頼まれて近所までひとりで買い物にいくことだってあります。すごいですね。おじさんに書いてもらったメモをお店のひとに渡して、あとは得意の身振り手振りで伝えます。

と、ここまではいいのです。ここからはこのおはなしでよくあるパターンなのですが、お店のひとが急な用事ができてしまい、店番をジョージに頼んでどこかへ出掛けてしまうのです。ジョージのことをよく知る顔見知りのお店でならまだわかるのですが、はじめて訪れたよく知らないお店でもこういうことがよく起こります。
ここでいつも僕はよくわからなくなってしまいます。どういうことなんでしょう? このおはなしの中では、おさるは一般的にとても知能が高くて、それも大人の人間並みに知能が高くて、よく街をひとりで出歩いていたりすることもある、という設定なのでしょうか?(この「設定」というのはとても便利ですね)そうでなければちょっと理解できません。それともそんなの全然気にするところじゃないんでしょうか?

そういえば以前にも似たようなことを書いたことがありました。「ポニョみた。」です。そうでした。大切なのは「不思議なことを不思議だと認識しながら、あたりまえに自然に受け入れる」ことなのでした。すっかり忘れてしまっていました。不思議なこと、納得いかないことに意義を唱えて排除しようとするとキリがないのでした。そういうものだと無理矢理にでも納得して受け入れてしまうことによって、ようやくものごとが先へ進んでいくのでした。

僕が生まれ育った家は駅の近くで、家から駅までの道の途中に映画館がありました。子供の頃には友だちとそこで「ゴジラ対メカゴジラ」を観たりもしたのですが、いつの頃からかピンク映画しか上映しなくなってしまいました。おもてにはそういう映画のポスターが張り出されていて、みんなそれを見て見ぬふりして歩いていました。うまく見て見ぬふりするために、映画館の前を通るときは反対側の歩道を歩いたりしていました。みんなとてもうまくそ…

月を愛でる

日本では明治5年まで太陰暦が採用されていました。
太陰暦とは、ひと月の長さを月の動きを基準にして決める暦のことで、これに対して一年の長さを太陽の動きを基準にして決める暦のことを太陽暦といいます。
正確には、月の動きのみを基準する暦のことを太陰暦といい、ひと月の長さを月の動きを基準として決め、1年の長さを太陽の動きを基準にして補正する暦のことを太陽太陰暦というそうで、明治5年までの日本で採用されていたのは太陽太陰暦ということになります。純粋な太陰暦では、太陽暦と比べて1年の長さが11日ほど短くなるため、3年に一度「閏月」を設けて、1年を13ヶ月にして調整するのです。

話が少し横道へそれてしまいましたが、今日書こうと思っていたテーマについて調べていたら、ちょっとおもしろかったので触れてみました。
言いたかったのはつまり、日本人が大切にしている古きよき日本の文化が育まれ、熟成された江戸時代までの日本では、ひとびとは月の動きにしたがって生活していた、ということなのです。

西洋と日本では、月に対するイメージが大きく違います。西洋では、月は狼男や魔女を連想させ、不吉や孤独などのネガティブで悪いイメージがあり、満月の夜には警察や病院が満員になるなどと言われたりもしています。「月」luna(ルナ)は、lunatic「気がふれる、狂人」という意味で、moon にも、moon struck「気がふれる、昔、月の霊気の影響とされた」という意味があります。
それに対して日本では、月はとても身近な存在として親しまれています。月の表面にはお餅つきをするかわいいウサギをみつけ、月をモチーフにした絵画や美術品が数多くあります。かの有名な桂離宮は貴族が月見をするための施設として建てられたそうで、池にせり出した月見台があり、建物内部の様々な部分にも月のモチーフが散りばめられています。竹から生まれた美しい姫が月へ帰っていく竹取物語があるように、日本では月に、静謐で神秘的なイメージをいだいているように思います。

江戸時代までの日本人は、暦を確かめる意味だけでなく、日が暮れると自然と月を見上げていたのではないでしょうか。そういえば村上春樹の「1Q84」でも、主人公が公園のすべり台の上に登って月を見上げるシーンが印象的に描かれていましたね。それにあの小説では物語の芯にずっと、神秘的な月の存在がありました。

神秘的…