おさるのジョージ的な存在を受け入れるということ

我が家では家族中が大好きなんです「おさるのジョージ」。

たぶんアメリカのニューヨークあたりに住んでいる「黄色い帽子のおじさん」と、そのペットで好奇心旺盛な「おさるのジョージ」が繰り広げるお話です。このジョージがかなり賢くて、言葉はしゃべれないものの何でもほとんど人間並みにこなします。いいたいことも身振り手振りでちゃんと伝えます。おじさんに頼まれて近所までひとりで買い物にいくことだってあります。すごいですね。おじさんに書いてもらったメモをお店のひとに渡して、あとは得意の身振り手振りで伝えます。

と、ここまではいいのです。ここからはこのおはなしでよくあるパターンなのですが、お店のひとが急な用事ができてしまい、店番をジョージに頼んでどこかへ出掛けてしまうのです。ジョージのことをよく知る顔見知りのお店でならまだわかるのですが、はじめて訪れたよく知らないお店でもこういうことがよく起こります。
ここでいつも僕はよくわからなくなってしまいます。どういうことなんでしょう? このおはなしの中では、おさるは一般的にとても知能が高くて、それも大人の人間並みに知能が高くて、よく街をひとりで出歩いていたりすることもある、という設定なのでしょうか?(この「設定」というのはとても便利ですね)そうでなければちょっと理解できません。それともそんなの全然気にするところじゃないんでしょうか?

そういえば以前にも似たようなことを書いたことがありました。「ポニョみた。」です。そうでした。大切なのは「不思議なことを不思議だと認識しながら、あたりまえに自然に受け入れる」ことなのでした。すっかり忘れてしまっていました。不思議なこと、納得いかないことに意義を唱えて排除しようとするとキリがないのでした。そういうものだと無理矢理にでも納得して受け入れてしまうことによって、ようやくものごとが先へ進んでいくのでした。

僕が生まれ育った家は駅の近くで、家から駅までの道の途中に映画館がありました。子供の頃には友だちとそこで「ゴジラ対メカゴジラ」を観たりもしたのですが、いつの頃からかピンク映画しか上映しなくなってしまいました。おもてにはそういう映画のポスターが張り出されていて、みんなそれを見て見ぬふりして歩いていました。うまく見て見ぬふりするために、映画館の前を通るときは反対側の歩道を歩いたりしていました。みんなとてもうまくその存在を受け入れていたように思います。
そのあと大規模な区画整理があって、その映画館とその裏あたりにあった飲み屋街もなくなってしまいました。目の前にある猥雑なものを受け入れているように見えたけれど、やっぱりみんなの負担や負い目のようなものになっていたのでしょう。それが排除されたあとの街の景色は、なんだか晴れやかに笑っているように見えました。でも本当にそれでよかったのでしょうか。いま僕はそういう猥雑でみんなに煙たがられるようなものが、ある程度の割合で街の中に分散して存在している方が、かえって健全なのではないかと思っています。

話は変わりますが、「ワンピース」のルフィーが生まれ育った島に「グレイターミナル」という場所がありました。社会不適合者たちを廃棄物といっしょに塀の中に押し込めたような場所です。その街が、天竜人と呼ばれる貴族の訪問を前にして、人間ごと焼き払われてしまいました。

納得いかないこと、見たくないものを目の前から排除していくような行動の行き着く先は、「グレイターミナル」を焼き払ってしまう世界のように思うのです。
おさるのジョージから始めた話の着地点としては飛躍しすぎな気もしますが、ジョージやポニョ的なレべルの、軽い「納得いかなさ」に対して、かわいさというオブラートに包んででも、日常的な存在として慣れておいたほうが色々といいような気がします。

そういったことが社会全体に寛容さを生み出し、今どことなく日本の社会全体に漂っている「一度大きな失敗をしたらやり直しはできなくて、その人の人生に明るい未来はない」みたいな閉塞感を払拭することにつながっていくのではないでしょうか。


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