そげキングが好きだ。

小6の息子の影響で3年ほど前からマンガ「ワンピース」を読み始めたのですが、みごとにハマってしまいました。作者の尾田栄一郎さんはジャンプ編集部にこの作品を持ち込んだ時に第1回と最終回のふたつを編集者に見せて連載を決めたという逸話があるそうですが、そんな信じがたいような逸話も、もしかするとそうかもしれないなぁと思わされるほど作品全体に緻密に計算された様々な伏線が張り巡らされていて、コミックスでいうと20巻分くらいの時間を挟んだ過去のひとコマに伏線が隠されていることなどがザラにあったりします。

そんなワンピースの中で僕がいまのところ一番好きな部分は、麦わらの一味がウォーター・セブンについてからエニエス・ロビーでの死闘を繰り広げたのちに、ニコ・ロビンをほんとうの意味で一味の仲間とし、さらにフランキーを船大工として仲間に加えるまでの一連の流れです。
そのあいだに一味が乗ってきた海賊船ゴーイングメリー号の破損が大きいために修復が不可能だという判断で船を乗り換える決断がくだされ、その決断に納得できなかったウソップが一味を離れます。しかし一味から離れきれなかったウソップは仮面をかぶり「そげキング」と名乗って一味を追いかけます。まぁ仮面から長っ鼻がはみ出しまくっているのでルフィーとチョッパー以外にはバレバレで「そげっプ」などと呼ばれたりしてます。
しかしエニエス・ロビーの戦いでは、このそげキングの大活躍によって一味は勝利をおさめることができ、その活躍がもとでウソップはそげキングの姿で海軍からの懸賞金を掛けられることになります。

そげキング、そしてウソップの魅力はやはりそのヘボキャラにあるわけですが、魚人島での戦いの前の2年間の修行を経てウソップがやたらとたくましくなってしまい、ちょっとした頼りがいなども生じ始めているので困っています。やはりウソップには常に全力のおよび腰で敵に立ち向かってもらいたいし、そしていつの日かまたあのそげキングのお面をかぶって活躍してもらいたいものです。

「そげきの島はどこにあるのかって? それはね、君たちの心の中さ。」



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Posted at 時刻: 4月 30, 2013 on 2013/04/30 | 0 コメント | Filed under: ,

ある正義と、それとはまた別の正義とが戦うのが戦争なんだよ、という話

そう、例の、戦争ってのは正義と悪とが戦ってるんじゃなくてね、という話。

これはつまり、あまりにも正義を突き詰めすぎると、あるひとつの視点において悪を排除して正しいものだけを残すってことをやり過ぎると、ある段階でクルッとひっくり返って巨大な悪になってしまうことがあるってことです。こうやってできあがった巨大な正義(悪)は、別の視点によってできあがった巨大な正義(悪)と抜き差しならないほどに対立してしまうのです。宗教戦争なんかがこれの最たるものですね。

ここで考えたのですが、現代の日本って社会全体が正しいものだけで埋め尽くされようとしていて、もしかするととても危険な状態なんじゃないでしょうか? 完全な悪は全力で排除したらいいと思うのですが、そのだいぶ手前の、ちょっといかがわしいものなんかが、正義の人たちの手によってドンドン排除されていっているような気がするのです。

個人においても正しくあろうとし過ぎると、どこかで破綻してしまうものなのでしょう。社会や組織を構成する個人が、自分の中にもある程度の悪が存在しているということを理解して、その社会や組織の中にもある程度の悪が存在することを大きな度量をもって許容しているのが、健全な状態なんじゃないだろうか、という気がしています。

清濁併せ呑む」という言葉があります。

善人も悪人も、善も悪もわけへだてせず、来るものはすべてあるがままに受け入れる。広く大きい度量があることのたとえ。
とあります。

度量不足ってことですね。

アメリカの落日―「戦争と正義」の正体
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正しい戦争と不正な戦争
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Posted at 時刻: 4月 29, 2013 on 2013/04/29 | 2 コメント | Filed under:

村上春樹的罪悪感の推移

いま世間では村上春樹さんの最新長編小説「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」が話題ですが、僕は最近(といっても、もう2〜3ヶ月前ですが)村上さんの昔の作品を読みました。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と「羊をめぐる冒険」です。どちらも僕が大学生の頃にはじめて読んだもので、「世界の終わり〜」については僕がこれまでに読んだ村上さんの作品の中で最高傑作だと思っていて、何度も何度も読み返している大好きな作品です。
どちらの作品もその作品世界にグイグイと引き込まれていって、長い長い小説なのにあっという間に読みきってしまった印象です。どちらも古い小説なのに、みずみずしく色褪せないおもしろさがあって、良い小説っていうのはこういうものなんだなぁと思いました。

しかしそれとは逆に、どちらにも時代の移り変わりによるギャップを感じさせる部分があり、それがまたとても新鮮に感じられました。
まずこれはどちらの作品にもいえることなのですが、主人公がやたらと煙草を吸うということです。「羊をめぐる冒険」では主人公はもちろん、主人公が追いかける「鼠」も、追いかける途中であらわれる「羊男」も煙草を吸い、彼らが道端などに捨てた吸殻が追跡の手がかりになっていきます。
僕がこの小説をはじめて読んだ20年くらい前には、世の中の成人男性の半分くらいは煙草を吸っていたし、道端にはたくさんの煙草の吸殻が落ちていました。それがとても自然で当たり前のことだったのに、いまでは煙草を吸うひとは極少数になってしまい、道端から吸殻はなくなりました。この変化もとても自然に当たり前のように移り変わってきたのでとても自然に受け入れていたのですが、この古い小説を読んで大きな変化に気付かされ、とても驚かされました。

そしてもうひとつ、これは「世界の終り〜」の主人公なのですが、小説の後半で彼は、いろいろと理不尽なことが続けざまに起こってちょっとヤケクソ気味になっていたとはいえ、お酒を飲んだ状態で車の運転をするのです。とても理性的な、社会に迷惑を掛けることなく目立たずひっそりと生活することを望む彼が、「えぇいもうヤケクソだ、酔っ払ってるけどしょうがないや運転しちゃえ」的な心理描写はなにもなく、とても自然なことのように飲酒運転していることに驚かされました。
僕がはじめてこの小説読んだ頃、僕は日常的に車を運転する状況ではなかったので、そのころ飲酒運転がどれほどの罪悪感を伴う行動であり、どれほどの社会的悪であったかが実感としては想像できないのですが、きっと現代の感覚と比較すると、とても軽微な罪悪でしかなかったのでしょう。もしかすると自転車の二人乗りくらいのレベルのものかもしれません。

昔はそれほど大きな罪悪感を伴うものでなかった煙草の吸殻のポイ捨てや飲酒運転が、現代では「ひとでなし」に近いあつかいを受けることになりました。それとは逆のこともあるんじゃないかと探してみると、学校の給食費の納入などがこれに当たるかもしれません。最近ではかなりの高い割合で給食費を納めない家庭があるそうですね。僕が子供のころは封筒に現金を入れて何ヶ月かに一度学校へ給食費を持っていきましたが、これを納めないことなんて考えられないことでした。

このように「罪悪感」のような一見変わることがないと思えるようなことも、時代の変化とともに変わってしまうものなのだなぁと考えさせられたのでした。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
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売上ランキング: 266311

羊をめぐる冒険
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売上ランキング: 5435

Posted at 時刻: 4月 17, 2013 on 2013/04/17 | 0 コメント | Filed under: ,