村上春樹的罪悪感の推移

いま世間では村上春樹さんの最新長編小説「色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年」が話題ですが、僕は最近(といっても、もう2〜3ヶ月前ですが)村上さんの昔の作品を読みました。「世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド」と「羊をめぐる冒険」です。どちらも僕が大学生の頃にはじめて読んだもので、「世界の終わり〜」については僕がこれまでに読んだ村上さんの作品の中で最高傑作だと思っていて、何度も何度も読み返している大好きな作品です。
どちらの作品もその作品世界にグイグイと引き込まれていって、長い長い小説なのにあっという間に読みきってしまった印象です。どちらも古い小説なのに、みずみずしく色褪せないおもしろさがあって、良い小説っていうのはこういうものなんだなぁと思いました。

しかしそれとは逆に、どちらにも時代の移り変わりによるギャップを感じさせる部分があり、それがまたとても新鮮に感じられました。
まずこれはどちらの作品にもいえることなのですが、主人公がやたらと煙草を吸うということです。「羊をめぐる冒険」では主人公はもちろん、主人公が追いかける「鼠」も、追いかける途中であらわれる「羊男」も煙草を吸い、彼らが道端などに捨てた吸殻が追跡の手がかりになっていきます。
僕がこの小説をはじめて読んだ20年くらい前には、世の中の成人男性の半分くらいは煙草を吸っていたし、道端にはたくさんの煙草の吸殻が落ちていました。それがとても自然で当たり前のことだったのに、いまでは煙草を吸うひとは極少数になってしまい、道端から吸殻はなくなりました。この変化もとても自然に当たり前のように移り変わってきたのでとても自然に受け入れていたのですが、この古い小説を読んで大きな変化に気付かされ、とても驚かされました。

そしてもうひとつ、これは「世界の終り〜」の主人公なのですが、小説の後半で彼は、いろいろと理不尽なことが続けざまに起こってちょっとヤケクソ気味になっていたとはいえ、お酒を飲んだ状態で車の運転をするのです。とても理性的な、社会に迷惑を掛けることなく目立たずひっそりと生活することを望む彼が、「えぇいもうヤケクソだ、酔っ払ってるけどしょうがないや運転しちゃえ」的な心理描写はなにもなく、とても自然なことのように飲酒運転していることに驚かされました。
僕がはじめてこの小説読んだ頃、僕は日常的に車を運転する状況ではなかったので、そのころ飲酒運転がどれほどの罪悪感を伴う行動であり、どれほどの社会的悪であったかが実感としては想像できないのですが、きっと現代の感覚と比較すると、とても軽微な罪悪でしかなかったのでしょう。もしかすると自転車の二人乗りくらいのレベルのものかもしれません。

昔はそれほど大きな罪悪感を伴うものでなかった煙草の吸殻のポイ捨てや飲酒運転が、現代では「ひとでなし」に近いあつかいを受けることになりました。それとは逆のこともあるんじゃないかと探してみると、学校の給食費の納入などがこれに当たるかもしれません。最近ではかなりの高い割合で給食費を納めない家庭があるそうですね。僕が子供のころは封筒に現金を入れて何ヶ月かに一度学校へ給食費を持っていきましたが、これを納めないことなんて考えられないことでした。

このように「罪悪感」のような一見変わることがないと思えるようなことも、時代の変化とともに変わってしまうものなのだなぁと考えさせられたのでした。

色彩を持たない多崎つくると、彼の巡礼の年
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世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド
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羊をめぐる冒険
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